冬蜂の死にどころなく                    目次に戻る

 ある病院に勤めていた時のことです。入院患者さんが急変し、とうとうご臨終を迎えたのでした。病室に駆け着けると、患者さんは既に下顎だけの呼吸をしており、心臓は痙攣の状態に陥っていました。私は直ぐにベッドの脇に立って、胸を圧迫する心臓マッサージを始めたのです。急変を聞いた家族の人たちが駆けつけてベッドの周りを取り囲みました。その中の男の人が大声で言ったのです。
「あんた何してるんだ?止めてくれ!少しでも息のあるうちに家に連れて帰る。家で死なせてやりたいんだ」
と言って、強引に止めに入りました。私は心肺蘇生を続けようとしましたが、とうとう家族の人たちが患者さんを無理矢理に連れて帰ってしまいました。それは患者さんにとって、せめてもの幸せな最期だったのかも知れません。
 日本では近代までは、私たちは大家族で暮らしておりましたし、近所の人たちとの繋がりもありましたので、自宅での介護や、自宅での看取りは困難ではなかったと言われます。
 でも現代の日本では、核家族化が更に進み、老老介護の世帯や独居老人の世帯が増えています。近所同志のお付き合いも希薄になっています。少子化と超高齢化の社会を迎えようとしています。
 現在日本で一年間に亡くなる方は百二十万人ですが、やがて最大で百六十万人という時代がやって来ます。看取りの医療と介護が膨大な量になります。国ではいかに医療費と社会保障費を押さえ込むかを考えました。その結果は「早期退院」と「在宅死のすすめ」でした。しかし、核家族化、医師不足のため、在宅看取りする余裕はないのです。
 また、都市部を中心に「待機児童問題」が深刻ですが、「待機老人問題」も深刻なのです。特別養護老人ホームの建設費が高コストであり、自治体の財政難では供給増加できないのです。入所待ちの老人は四十二万人だそうです。
 従って、「病院では退院を迫られ、施設は満床で入れず、在宅での看取りには人手も医療も不足している。その結果、死に場所がない」そういう社会が近未来にやって来ます。「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)という名句が現実的な迫力を持ってしまいます。この時代に生まれたタイミングを問うても、その答えは役に立ちません。何処かに温かい日溜りを探さねばならないのです。

     八戸市の月刊誌「うみねこ」2013年 5月 573号 掲載


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