胸に刺さる言葉                         目次に戻る


 K内科医の診察室に心気性の患者さんが入って来た。彼は大の上がり性なので、人前に立つと頭の中が真っ白になって、大失敗をすることがあるのだと言う。それで、あるオマジナイを常套手段としていた。つまり、自分の手のひらに「人」の文字を書いてこれを呑み込むのである。「人を呑む」。これで万事上手く行っていた。
 ところがある日、不用意に「禿」と言われてしまったので、とっさにこれも手のひらに書いて一気に呑み込んだのだが、この「禿」が食道に突き刺さり、嚥下が困難で痛むのだと訴えた。じっと聞いていたK医師は、「この忙しい時に何を馬鹿なことを」と内心ムッとしたが、いかなる訴えにも対応しなければならなかった。
「それでは、すぐに胃カメラで見てみましょう」
そう言って、K医師は首尾良く胃カメラを終えた。異常は認められず、K医師は結果の説明にひと工夫を凝らした。
「食道の真ん中にその『禿』が突き刺さっていたので、鉗子で押し込んでやりました。きっと胃の中へ落ちたでしょう。もう安心ですよ」
 そう説明された彼は、お陰様でさっぱりしましたと答えた。
 しかし、椅子を立ちながら、
「でも今度は、胸が痛みます。あの『禿』は胃に落ちずに、隣の心臓に刺さったのではありませんか。学習図鑑で人体図を見たことがあるので分かります。間違いありません」
と言い張った。K医師も負けてはいない。
「それでは薬を上げますね。これは体内で異物となった言葉を溶かす薬ですからね」
と説明して、抗うつ剤などを処方せんに書いた。
 しかし、これでは解決にならないと考え、彼の心の中に少しだけ立ち入ることにした。
「なぜ、そんなに言葉が体に影響するんでしょう?」

 すると、彼はこんな話をした。
 「私の兄は、正義、誠、忠とかの言葉で胸をいっぱいにされ、戦争へ狩り出されたまま帰って来ませんでした。私は、そんな訳の分からない言葉で命を奪われた兄が不憫でならないのです。そんな言葉で兄を送り出した自分を責めているのです。そんな抽象的な言葉を聞くと、体がこわばってしまうのです」
 彼は、そう言って、貝のように口をつぐんだ。

 K医師は、この患者さんをそっと待合室へ送って行った。折しも、待合室の大型テレビは「海外ニュース」の時間であり、米国・英国発の派兵の壮行式を報じていた。凛々しい姿の米・英の若者たちが、「星条旗よ永遠なれ」や「威風堂々」の行進曲に鼓舞され、真新しい銃を胸にかき抱き、故国を出発するところだった。
「民主主義を広めるための戦いだ!」
と言う。彼らの胸には、honesty(誠)だの、loyalty(忠義)だの、justice(正義)だのという英単語が刺さっているのだろうか。そんな息子たちを誇りに思う親たちの胸にも、そんな英単語が刺さっているのだろうか。
 K医師は、大きな溜息をついて、次の患者さんを呼び入れた。早くしないと、今日も昼ご飯を食べ損ねてしまう。

     
青森県医師会報 平成20年3月 538号に掲載


 目次に戻る












                                                                

     

1 1