善人なをもて                 目次に戻る

 
 K先生は、京都国際会議場での学会を終えると、急ぎ帰路に就いた。経過の思わしくない患者さんを同僚医師に預けて病院を出て来たのだ。彼にとって学会は、病院勤務の束縛からしばし解放される、貴重な自由時間なのだ。
 今回の鞄の底には、文庫本が2冊、遠藤周作「沈黙」と唯円「歎異抄」が忍ばせてあった。帰りの新幹線車中で読もうと思い、自宅の書棚から持ち出したものだ。
 順調に京都駅に着くと、予定の新幹線まで少し空き時間がある。どこか寄り道をとガイドブックをめくるうちに、ふと気付いたのだ。先生の実家は浄土真宗であり、その総本山である本願寺が、京都駅のすぐ近くにあるのだ。寄り道して訪れて見よう。確か「歎異抄」ゆかりのお寺なのだから!
                  
 
 K先生は、本願寺に着くと、阿弥陀堂門から入って、案内表示を見ながらまっすぐ阿弥陀堂へ進んだ。お堂に入ると、中央に阿弥陀如来が安置されていて、その周囲をカルチャー教室ようなご一行が取り囲んでいた。その中でツアーコンダクターを兼ねた若い講師が何か説明している。K先生が小耳をそば立てた時、その講師は、次のような話を始めた。
 ・・・ここでお話が一転しますが、ドイツの心理学者エーリッヒ・フロムは「正気の社会」という本の中で、こう述べています。宗教には、いわば「父の宗教」と「母の宗教」がある、というのです。
 「父の宗教」というのは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などです。そこでは神が、人に秩序を与え、怒り、罪を裁き、罰します。天国に入るには神の恩寵と最大限の自力が必須です。一度犯した罪は許されることなく、最後の審判によって裁かれ、永遠の業火に焼かれるのです。大変ですよ、気が狂いそうですね。
 「母の宗教」というのは、仏教(浄土宗)です。そこでは阿弥陀仏が、全ての人を包み、怒らず、罪を裁きません。全ての人は仏の慈悲によって許され救われ、往生するのです。皆様は仏教徒ですか?、浄土真宗の方はいらっしゃいますか?その方々は楽ですよね、有り難いですよね。自分の無力を認めて、他力にすがり、ただただ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ければ、往生出来るんですから。「南無阿弥陀仏」が大袈裟で嫌なら、「お母さん、助けて!」、「ママ!ご免なさい」でも良いんですよ、どうせ同じ意味なんですから。全身全霊で母の名を叫ぶ子供の心、それが往生のポイントというわけです。それだけで、お母さん(阿弥陀仏)は、必ず救って下さるのです。
 かつて、日本の隠れキリシタンの人々は、迫害され無残な死に追いやられる自分たちに神が「沈黙」を続けるので、神から去りました。マリア様にすがったのです。マリア様が、「踏み絵」を踏んだ自分たちでさえ、踏んだ足の痛みを忘れなければ、叱って許してくださると思ったのでしょう。マリア様は観音様のようなお方だと、思ったのでしょう。まさに「マリア観音」ですね。皆さん!現代の地球では、報復が報復を呼び、消えることのない罪が積み重ねられています。それを救えるのは仏教なのです!

                   ☆
 
 K先生は、若いツアーコンダクターの饒舌な説明に閉口したし、もとより病院の仕事と学会の準備とで寝不足が続いていたので、立っていると眩暈がするのだ。それでお堂の片隅に座り、しばし眼を閉じるうちに、一瞬の眠りに落ちて夢を見始めた。
 夢の中は、そのまま同じお堂の中であり、閉館時間を過ぎたのか誰も居ない。先生は、阿弥陀仏の脇で、来し方を思い出し、うなだれて伏(ふせ)っている。無理もない。今までの医師人生の中で、数多の患者さんをお看取りして来たのだ。その中には力量不足の故に不本意な経過を辿った患者さん方もおいでなのだ。その方々に対する忸怩たる思いと自責の念とが、彼の心の奥底に罪業の塊となって沈殿しており、それがために医師としての仕事が時に辛くなることがあったのだ。
 ふと気付くと、阿弥陀如来の台座の前に、「親鸞聖人」と覚しき高僧が座っていて、穏やかにこう語り始めた。
・・・貴方はお医者を辞めたいと思うのですか?そう出来ぬことを百も承知の上で、そう思うのですか?お医者の中には、患者さんらの運命を背負うことのその責任の重さに疲れて、自死を急いだ方までおいでだと聞きます。避けられない人々の死に直面して、ご自分の力量不足を責めるのは酷でしょう。それ程の特別な使命を背負わされた方々が、どうして救われないことがありましょうや。
 私は貴方に申し上げたい。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と。
 全ての煩悩を身につけた私たちは、それを断とうと自力で修行を続けます(善人)。しかし、どんなに修行を続けても、その煩悩から逃れることは出来ないのです。「自分が救われようもない悪人だ」と身に沁(し)みて知った人は、自力を頼りとする不遜な心を改めて、すべてを阿弥陀仏の慈悲におすがりする(他力)ようになるのです。こういう人こそが第一に往生するのは言うまでもありません。
 高邁な自信あるお医者でさえ救われるのです。ましてや貴方のように、ご自身の非力を身に沁みて自覚され、それがために他力にすがるお医者が、救われない訳がない!
しっかりお休みを取って、しっかり念じることで、仏の慈悲におすがりなさい・・・

                   ☆
 
 夢から醒めたK先生の目尻に涙が滲んでいた。先生は、夢の中で「親鸞聖人」の口を借りて、自分で自分を慰めたのだと思った。カタルシスの夢だったのだ。
 カタルシスとは(広辞苑)、古代ギリシア医学で、「病的な体液を体外へ排出する瀉血(しゃけつ)」のことだ。また、ある人々は、「罪からの魂の浄(きよ)め」のことを言った。アリストテレスは、「悲劇を見て涙を流すことで心中のしこりを浄化する」ことを言った。K先生は一瞬の夢で、少しだけカタルシスが出来たのだ。弱音を吐いた自分を、夢の中の高僧が理解してくれた。そういう思いが、自分を楽にしてくれたのだ。
 ふと腕時計を見ると、大変だ、時間だ、新幹線に乗り遅れる!先生は、京都駅を目掛けて脱兎の如く駆け出した。病棟へのお土産を買う時間もない!今夜から再び携帯電話の「首輪」に繋がれる。明日から再び、「勇気を奮い立たせる日々」に戻るのだ。この生活があと何年続くのか?先生は、「定年よ早く来い!」と願うばかりだった。

      青森県医師会報 平成30年 4月 659号 掲載




 目次に戻る