隣の観音様
K先生は郷里で内科医院を開業した。自分が生まれ育ったこの町で、自分がお世話になった人達のために、少しでもお役に立つことが生涯の夢だったのだ。彼らは、幼少の頃のK先生を優しく諭し、ある時は肩を押し、ある時は尻を叩いてくれたのだ。先生は、そんな優しくも頼もしくもあった人達を、今度は自分がお世話してあげるのだと、意気込んでいた。
しかし現実は違った。彼らの大半は、老いとともに認知症になり、ご飯食べたも忘れ、金を盗まれたと言い、幻覚を見、被害妄想を抱き、徘徊し、意固地で無口になって行ったのだ。幼い頃に聞いたおとぎ話は、必ず「昔々ある所に、良いお爺さんと良いお婆さんが住んでいました」で始まっていたのに、現実にはそんなお爺さんもお婆さんも居ないのだ。先生は、遅蒔きながら、おとぎ話と現実の違いに身をもって直面し始めたのだ。
例えば、ある頃先生は、あるお年寄りの患者さんを受け持ちしていた。その患者さんは、来院の度に老いが進み、姿が崩れて生彩を失い、遂には「風化した野辺のお地蔵さん」のように反応がなくなってしまったのだ。その対応に苦慮した先生は、ある日、遂にその患者さんに邪険に応対してしまったのだ。先生は、すぐに反省したものの、人の老いゆく姿に地団駄を踏んだ。ご自身の視力・聴力の低下や、体力・気力の衰えに腹を立てながら、「こんな私に何が出来るというのだ」と、情けなかった。誰もが知るように、草花は、芽が出て花が咲いて、時が来れば枯れてしまう。人の老いゆく姿もまた同じなのだ。自分が、そんな必然の流れに逆らって、何が出来るというのだ。先生は次第に無力感と寂寥感に捕らわれ始めた。
そんなある日、K先生は法事があって、和尚さんといっしょに会食の席に就いた。その席で、和尚さんは「観音経」の一節をご法話下さり、次のようにおっしゃったのだ。
「観音様は、衆生に八正道を教え諭して煩悩から救済しようと、三十三の姿に化身してこの世に現れます。つまり、あなたの隣のお人が観音様の化身かも知れないのです。失礼の無いようにして下さい」
先生は会食の箸を使いながら考え込んでしまった。先生は、医学生の頃からずっと、
「患者さんが教科書だ、患者さんに学べ、患者さんに全てがあるのだ!」
と言われ、そう言っても来たはずだ。遂には「患者さんが観音様だ」と来た!そこまで言うのかと閉口したが、閉口するようでは自分は「悟りに遠い」のだった。
☆
そんなある日のこと。日も暮れ診察が終了して、「院長先生、お疲れ様でした、お先に上がりま〜す」と職員の人達が矢継ぎ早に帰って行った。院内は誰も居なくなって、物音ひとつ無く、先程までの喧噪が嘘のようだった。K先生は、今日一日の疲れのため、診察室の椅子にぐったり座ったまま、天井の蛍光灯を見上げて眼をつむると、そのまま眠りに落ち、夢を見始めた。
その夢は、紛らわしいことに、先程までの診察のその続き、という設定になっていた。
院内は誰も居ないはずなのに、患者さんを呼び入れる声がする。
「観音様〜、診察室へお入り下さ〜い」
呼ばれて入って来た患者さんは、「風化した野辺のお地蔵さん」のようなお年寄りだった。お年寄りは、「いつも、ご診察下さり、ありがとうございます」と言う。先生がカルテから顔を上げると、診察ベットの上に観音様が鎮座なさっている!
先生は、「おとぎ話では、よく夢の中に観音様が出て来るけど、本当に出て来るんだ・・・これ本物かな?」と、内心不審に思いながら、観音様に見とれていた。
観音様の柔和なお顔は、おおよそ次のようなことをお話しになっていた。
(一切皆苦)貴方も患者さんも、この郷里に生まれ、老い、病を得て、死を迎えます。
これら「生老病死」の一切が「苦」なのです。これらの「苦」を遠ざけるためには、
(諸行無常)全てのものは常に変化し続けてとどまることが無く、貴方も患者さんもとどまること無く老い行くと知るべきです。そして、
(諸法無我)貴方も患者さんも、感覚と記憶の寄せ集めに過ぎず、そこに「私」や「お世話になった人達」などの「主体」は無いのです。幼少の頃からの記憶は感覚が作った幻です。今後起こることも感覚が作る幻です。ですから、貴方の無力感や寂寥感も幻です。
さて、貴方が患者さんを観音様の化身かと思うのと同じように、もし患者さんが、病気で苦しくて貴方にお会いする時、まさに「地獄に仏」の思いをされるでしょう。貴方を観音様の化身だと思うかも知れません。貴方は、大丈夫ですか?それに相応しいだけ十分に観音様ですか?貴方は、患者さんに説教しようと躍起ではないですか?もし患者さんが観音様の化身だったら、「釈迦に説法」なのですよ。貴方は、患者さんを無理矢理に諭そうと、叱ったり怒鳴ったり、いつも鬼の顔をしている不動明王ではありませんか?貴方も、衆生の一人なのですから、患者さんの期待を裏切らないように、常に八正道に勤め、精進を怠ってはなりません。
貴方にもし、患者さんと涙を共にする気持ちが無くなったら、早々に医者の仕事をご辞退なさい。貴方にもし、この町の方々に対して拘(こだわ)る気持ちが無くなったら、同時に、貴方が存在する意味も無くなるのです。それで生きて行けますか?
K先生は、仏教説話集を読まされて居るみたいで、次第に閉口し始めた。また、閉口するようでは、自分は「悟りに遠い」と判明したのだった。
ここまで語ると、先生の心中を察した観音様は、くるりと踵を返して診察室を出ると、お会計に向かった。先生は観音様を追って待合室に出て驚いてしまった!
狭い待合室に並べられた合成皮張りソファの上に釈迦如来を始め、薬師如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、聖観音、千手観音、十一面観音、馬頭観音、如意輪観音、不動明王などなど、錚錚たる陣容が肩を接して並んでいて、もうソファが今にも潰れそうだ。その光景は、まばゆく、きらびやかで、はっと息を飲むほどだ。
先生が後ずさりしながら診察室へ戻ると、千の手に千の説教を抱えた千手観音様たちが後を追って入り込み、それぞれに説教を始めたので、院内は騒然として来た。遂に、診察室は多数の観音様で立錐の余地も無くなり、先生は待合室を駆け抜け正面玄関に立つと、更に驚いてしまった!夜の帳が降りた町並みを無数の菩薩様や観音様が埋め尽くし、それらは医院に向かって海鳴りのような音を立てて押し寄せて来た。先生は思わず叫んだ。
「もう沢山だ、止めてくれ!」、ジージー・・・・
☆
K先生は椅子の上で夢から醒めた。誰も居ない院内は静寂で、ただ、天井の蛍光灯がジージーと耳鳴りのようなハム音を立てている。内部の安定器が古くなったせいだ。
先生は、おもむろに立ち上がり、帰路の途上で考えた。
自分もすぐに小父さん小母さんたちの仲間入りをする。これから、どう生きて行けば良いのだろう?彼らに愛着を増せば増すほど、「苦」も増大するのだろう。愛着を減らせば、「苦」も減弱するのだろう。愛着も無く、「苦」も無く、死んでるみたいに生きたら良いのだろうか?
「そうでない境地があります。煩悩と悟りは二元対立するものではなく、究極において一つなのです。これを、煩悩即菩提、といいます」と、あの観音様なら諭すのだろうか?
「悟りに遠い」K先生は、当面、余計な拘りを捨てて身を軽くし、ほんの少しの欲を残して、生きて行くことにしたのだ。
先生がご自宅に帰ると、もう一人の「観音様」が、晩ご飯の支度をしながら待っていた。先生は、最近この「観音様」に少し耳従うようになった。その分だけ、一歩悟りに近づいたと見るべきかも知れない。その「観音様」は不思議そうにこう言う。
「あなた、最近、少し変わったみたい。何かあったの?」
青森県医師会報 平成29年11月 654号 掲載