西暦20××年、初冬。保健所長K氏は感染症対策に忙殺されていた。鳥インフルエンザ患者が出た場合どう対応すべきか、神経を尖らせていたのである。机上のパソコンには中央省庁からのメールが次々と入って来る。K所長はそれらに応えるべく、多量のメールを物凄い勢いで打ち込んでいた。ところが、どこをどう打ち間違えたのか、彼のパソコンは突然奇妙なメールを吸い寄せ始めたのだ。この時K所長は、これから驚くべきメールを傍受することになろうとは夢にも考えていなかったのである。それらのメールは、彼の頭上はるか上空の大気圏を突き抜け、△△光年の彼方から飛来するものであった。彼は目を皿にして、液晶画面に見入った。
【 指令メール第1報 】(宇宙検疫隊本部長より銀河系分隊長へ)
#$%&@*?・・・こちら宇宙検疫隊本部。私は本部長である。われわれの任務は、もとより、宇宙空間において有害な病原体の発生を事前に感知し、その拡大を未然に防止することにある。今般、検疫隊本部では、銀河系太陽系第三惑星(以後、地球と言う)に、H5N1亜系高病原性鳥インフルエンザウィルスの発生を感知した。よって、貴分隊は直ちに地球に急行し、調査の上、現況を報告せよ。以上。
【 報告メール第1報 】(銀河系分隊長より宇宙検疫隊本部長へ)
こちら銀河系分隊。われわれは地球に到着するや、直ちに調査を開始しました。もとよりこの星は病原体への対策が遅れていて、周囲の星にとってはメイワクな星だと悪評が高いのであります。今般ご指摘の通り地球では、鳥、ブタ、ヒトが渾然と同居する土壌において、新型高病原性ウィルスが発生し、それが鳥からヒトへと感染しておりました。もし更に、ヒトからヒトへの感染が成立すれば、爆発的な流行となる危険があり、地球人たちは神経を尖らせております。しかしながら、この星には、ヒトからヒトへと感染するもっと恐しい感染症が既にいくつも存在している疑いがあり、われわれは背筋を寒くしています。
早速、その最も代表的なものを報告します。われわれの調査によれば、この感染症は、かつて形骸化したユダヤ教と呼ばれる土壌の中から発生し、初感染者はイエス・キリストという名の男でありました。周囲の者たちや為政者は、感染の広まりを恐れ、この患者の隔離を企て刑死としたのですが、既に受難の道の途上で12名の男性に感染が拡大していたのです(当報告では以後これを「キリスト病」と呼ぶことにします)。現在ではこのウィルスが正統株から亜系を派生させ、偏狭な原理株なども加えて地球全土を覆っていると推測されます。初感染者を畏怖する気持ちから、彼の刑死の像や幼い頃の絵がこの星のあらゆる場所に掲げられています。ちなみに、われわれ宇宙人は、ビッグ・バンを元年とする「宇宙歴」を使用していますが、地球人は「キリスト病」の発生を基準とした「西暦」なるものを使用しておるのですから、この感染症の影響の大きさは計り知れません。これに罹患したヒトは、「全知全能なる神の前でヒトはみな平等だ」と言い、「隣人を愛し、敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言うのです。かつてアウシュビッツという土地で、他のヒトの命を助けるために身代わりに生き埋めになったヒトもいます。この殉教の症状は本来の地球人の本性と正反対のものであります。生き延びたいという願望はヒトに備わった本能ですから、この場合、生体の防御機構が何らかのウィルスによって破壊されたのではないかと、医学班では推測しております。懐疑する力が傷害されるのか、「奇跡を見ずして神を信じなさい」と言うのです。大国の権力者たちは聖書の中のハルマゲドン(善と悪の最終戦争)を信じ、他者を滅ぼし自分たちが最終の勝利を得るのだと信じているのです。洗礼の水や、聖書や、十字架からウィルスを検出すべく頑張っておりますが、未だ成功していません。
次いで、大規模な感染症と思われる「イスラム病」について報告します。これは、偶像崇拝の多神教が根を張った貧富の格差社会を土壌として発生しました。初感染者はムハンマドという男です。これに感染したヒトは次のように口走るのです。「アッラーは宇宙の創造者・支配者であり、全知全能にして、正義と慈愛に満ちた神である」とか、「アッラーの前では全てのヒトが平等であり、アッラーに絶対服従するものは天国に召され、そうでないものは地獄に堕ちる」と叫んで、神の王国の拡大をめざして聖戦へと走り出すのです。お互いを強い戒律で縛って共同体となり、これを守るためには自爆テロをも辞さないのです。この場合も、本能としての生体の防御機構がウィルスによって破壊されたのではないかと思われます。聖書とコーランは共通した部分が多いことから、両者のウィルスは起源が同じと考えられますが、巨大な岩石やモスクの中からウィルスは未だ検出されていません。
これらの他にも、ロシアから発生した「社会主義病」、アメリカで重症の「資本主義病」など、この星には感染力の大きな重病が多数存在するのです。以上。
【 指令メール第2報 】 詳細なる報告ご苦労であった。そうすれば、地球上で代表的な感染症である「キリスト病」および「イスラム病」のウィルスは、地球人にとって例えば大腸を守る乳酸菌のように、地球人の健康に良い役割を果たしているのだな? 地球は平等と愛と奉仕に満ち、正義と慈愛に満ちているのだな?以上。
【 報告メール第2報 】 残念ながら、本部長のご期待を裏切るような報告を続けなければなりません。われわれが地球に到着する前は、この二つの感染症は別々の地域に分布する風土病でしたが、今は地球が狭くなり、両者は境を接しています。これらのウィルスは、逆境にある地球人ほど感染しやすく、感染すると、地上の王国に跪いていた者たちが急変し、天上の王国を望むようになるのです。今この地球では、天上の王国が少なくとも二つあって、互いに激しく対立しているのです。「キリストの王国」と「アッラーの王国」です。地球に神が二つあっては戦いになり、そうかと言って神が全くなければ世界の説明がなされず生きていけないのです。それなら、地球全体がひとつの神を持てば良いのでしょうが、「キリスト病」の神と「イスラム病」の神とが同一のものだと気付くのには厖大な時間が必要でしょう。
地球人の未熟な脳にとっては世界は理解しがたく不条理だらけなのです。それでは不安で生きていけません。彼らには世界を分かりやすく説明してくれる物語が必要なのです。これを信じることによって物語は真理となるのです。信じる力の強いヒトは、強者となり、大国となるのです。彼らの脳は容量が小さいので、物語がひとつしか入らず、ひとつの物語で一杯になればより原理的となります。彼らの脳が進化してその容量が増大するまで途方もない時間が必要でしょう。
ある島国では、小さな脳にたくさんの物語を受け入れることで大人しくなっている人々がおります。そこでは殉教のような非業の死の人物もいなければ、至福の人物もいなくて、人々は密かに死の恐怖に震えながら曖昧な人生を生きているのです。それは彼らが本当の物語を持っていないからなのです。これを解決するには、地球人が頭を良くして、「死の恐怖」の発生するメカニズムを自力で解明しなければなりません。それには莫大な時間が必要でしょう。
現在、地球人は宇宙ステーションの建設に着工し、活動範囲を地球外に拡大させております。病原体を宇宙空間へ拡大さてしまうのはもはや時間の問題です。感染を阻止するためには、病原体を根絶するしかありません。強力な殺菌剤を散布するか全土を焼き払うかしか手だてはありません。もはや一刻の猶予も許されません。ご指令を!以上。
【 指令メール第3報 】 ウィルスは未だ得られていない。検出を急ぎ給え。しかしながら、緊急事態と判断し出動を命じる。消毒隊は、最強の白色粉末殺菌剤を満載して、直ちに第三惑星に向かい給え。同惑星に到着したら待機し、私の最終指令を待って、地球に向けて有りったけの殺菌剤を散布し給え。それで効果がない場合は全土を焼き払うことになる。以上。
【 報告メール第3報 】 了解!本部長殿!
K所長は読み進むに従い全身に冷気を感じた。窓の外を見ると、天空より白いフワフワしたものが辺り一面に落下し、街並みが白く埋まり始めたのだ。
「宇宙人の襲来だ!」
この緊急事態をどこに報告したものか。K所長は震える手で電話機を取り、電話帳をめくった。厚生労働省に、WHOに、国連に、はたまたアメリカ国防省に連絡したものか。しかし、国防長官にこのメールを理解してもらえる自信はない。彼の心は千々に乱れた。
「おお、神様、仏様!」
大いに慌てたK所長は、この次ぎに続く最終メールを読む余裕がなかったのだ。それは以下の通りであった。
【 指令メール最終報 】 こちら本部長。報告にある全ての感染症疑い例において、いずれも証拠のウィルスは検出されなかった。ヒトから宇宙人への感染も認められていない。この星のある国のように、疑いだけで先制攻撃を開始するような愚行があってはならない。それでは、指令を与える。地球に一指も触れることなく、全員直ちに帰還せよ!以上。#$%&@*?・・・
K所長は、大きなクシャミとともに居眠りから目を覚ました。 窓の外を見ると、先ほど降り始めた初雪がもう街並みを白く埋めていた。冬将軍の到来も間近く、鳥インフルエンザ対策が正念場を迎えていた。
青森県医師会報 平成19年10 533号 掲載