失われた時                          目次に戻る


 業界誌のコラムを執筆しているK氏は、今日も行き付けの珈琲店で原稿用紙に向かっていた。そこは、世田谷区三軒茶屋の「隠れ家」的な珈琲店で、学生時代からのお気に入りの場所なのだ。彼は毎朝ここにやって来て、馴染みの店主に「よ!」と一声掛けると、奥まった自分の指定席に着く。そして店主御自慢の薫り高いエスプレッソを口に含むと一日が始まるのだ。
 K氏は、高校三年生の夏休み、マルセル・プルーストの長編小説「失われた時を求めて」を読んで、その魅力に取り憑かれてしまった。彼は、「この長編を原文で読んでみたい」ただそれだけの理由で、W大文学部仏文科を選んだ。しかし、教師である父母に散々に言われたのだ。「一度きりの人生をそんなことに費やして良いのか!」とか、「若気の至りだ、盛年重ねて来たらず、まだ遅くないからやり直せ」とか、「そんなことじゃ、始めから負け組じゃないか!」とまで言われたのだ。しかし当の本人はそんな忠告に馬耳東風だったし、文学部にはそんな風変わりな学生が多かったのだ。

 長編小説「失われた時を求めて」は、主人公の「私」が、無意識に湧き上がる記憶をもとにして、「私」の生きた歴史を壮大なタペストリーに織り上げていく、そんな形式をとっている。舞台は、第一次世界大戦前後のフランス社交界であり、大公、公爵、男爵、その夫人と令嬢などの貴族たちや、ブルジョワ階級の俗物たち、ユダヤの富豪、芸術家、高級娼婦など、様々な人物が登場する。それらの人々との出会いを通じて、次第に「私」が形成されて行く、そんな構成になっている。
 この物語の有名な冒頭は次のようだ。
 ・・・外出から帰った「私」は、冷えた体を温めようと、温かい紅茶にマドレーヌを浸して口に含んだ。すると、不思議な感情が湧いて来て、幼少の頃の幸せな記憶がありありと蘇って来た・・・
 こんなふうな無意識な記憶を辿りながら、失われた時を求める「私」の長い旅が始まるのだ。「私」は紆余曲折を経ながら社交界を登っていく。やがて第一次世界大戦が多くのものを破壊してしまい、「私」が疎開先から帰って見ると、パリの社交界は変わり果て、全ての人々が老いの身に変貌していた。終盤で、「私」は長編作家を志し「失われた時を求めて」を書き始める。その小説の主人公は、幼少の頃の幸せな「私」であり、物語は円環になっている。そこに「記憶と時間」、「社交界と俗物性」、「異性愛と同性愛」などのテーマが交錯している。
 この小説に出合った頃のK氏は、主人公の「私」と自分とを重ね合わせ、自分の人生の物語を読むかのように、読み耽っていたのだった。しかも、もしかしたら自分が中央の文学界にデビューする時が来るかも知れない、そんな思いが脳裡をよぎることすらあったのだ。
                    ☆

 K氏は、W大学を卒業しても定職に就くことがなかった。青年時代の彼には多少の女友達が居たのだが、稼ぎのない彼に結婚話が持ち上がるはずもなかった。中堅世代となっても、家庭を持つよりは、独身の自由が性に合っていた。K氏は、現代思想に大きな影響を与えたプルーストの小説に学びながら、自身の「失われた時」を書くことで、自身の「来し方・行く末」を見出そうと苦心していた。しかしながら、その小説世界が「凡庸な平民」である自分からは余りにも遠い世界であると、やがて感じてしまったのだ。それに気付いてからは、この長編小説から遠ざかってしまった。

 一体自分は、人生を賭けて追求するだけの宿命的なテーマを持っていたのだろうか?コラムを書きながら時折自問してみても心許なかったのだ。それでもK氏は、先輩から業界誌のバイトを貰い、糊口を凌ぐための多少の売文稼業をしながら、試行錯誤を続けた。そうした暮らしの中に、彼の青壮年時代が済し崩しに失われていった。かつて長編小説「失われた時を求めて」にこだわり、貪るように読み耽った自分が懐かしかった。
 K氏は、生活のためにコラムを書き続けねばならなかったが、若い感性で仕入れた多数のテーマもネタも、次第に底を突いてきた。年を経るに従い、ポップな書き方が無理になって来たし、「人生このままで良いのだろうか」と自問するようなテーマばかりが底に残った。K氏のコラムは、次第に苦吟するような文体になり、自身を削るような内容になってしまった。そもそも「私」とは一体何なんだ?次第に書けない日々が多くなり、心労が募り、眠りも乱れた。

                    ☆

 ある朝、K氏は珈琲店に来て席に着いたが、薫り高いエスプレッソを前にしたまま、テーブルに突っ伏して二度寝の眠りに落ち、夢を見始めた。その夢の世界は、雑多な知識を組み合わせたシュールなものだった。
 先ず、アリストテレスやロックらが登場して、「人間は生まれた時、何も書かれていない石板(タブラ・ラサ)である」と言っている。そして「この石板に、生後の経験が書き込まれて、記憶、知識、観念が形成されるのだ」と言っている。
 ふと気付いたら、K氏の体幹が石板に成っている!まるで痩せ細ったサンドイッチマンみたいだ。看板の上辺から頭が出て、両側から腕が出て、底辺から足が二本出ている。真っ白だった看板に、母の匂い、温もり、光、音などの感覚や、やがて紅茶の香りとマドレーヌの味覚などの経験が書き込まれる。並行して平仮名、漢字、フランス語などの文字が書き込まれ、遂には、神とか真理だとか、語り得ぬことまでもが形成されていく。
 並行して「私」というものが、父母や周囲の人々との出会いを通じて形成され、「私」の生きた歴史がタペストリーのように描かれていった。父母との不和の経験の上には、東京の多彩な経験が重ねて描かれたので、下層の部分は隠れて見えなくなった。
 実り豊かなタペストリーがピークを越えた頃、夢は暗転した。石板は輝きを失い、サラサラと風化を始めた。更にその表面はザラザラになり、次第に、何が描かれてあるのか分からなくなった。
 気付いたら暗闇の中にいる。目前には名前の無い石板がゴロゴロ転がっていて、自分もその中の一個だ。もはや、この石板が自分であるという区別を失っていた。まるで無縁仏の並ぶ墓地のようだ。石板は四角いもの、丸味のもの、洋風のものなどがあった。やがてそれぞれの石板は砕けて形を失い、塵芥(じんかい)となって大地に還っていった。
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 K氏は夢から覚めた。砂糖壺(つぼ)からこぼれたグラニュー糖が顔中に付着している。
 「私」は塵芥となっ大地に還った?いや!若しかしたら、「私」は父母の記憶の中に残っているかも知れない!そう思うと、にわかに故郷の年老いた父母が心配になった。
 K氏は、自分らしい人生を求めて、父母の忠告から逃れるように上京したのではなかったか?それ以来、父母との交信は殆ど途絶えたままだった。今更、会わせる顔もない。彼が、暗澹とした思いで、暗い店内の古びた壁を眺めていると、ふと啄木の短歌が浮かんだ。
「燈影なき室に我あり/父と母/壁の中より杖つきて出づ」
 そんな情景を目撃したかのように、K氏は矢も楯もたまらず帰郷を決心した。彼は店主に慌ただしく別れを告げて店を飛び出した。多少の身辺雑貨とお気に入りの書籍を二束三文で売り払い、滞納したアパートの家賃を精算すると、帰りの電車賃しか残らなかった。こうして、自堕落に過ごした数十年の東京生活は呆気なく片が付いた。
 K氏は帰郷すると両親に不義理を詫びたが、もう父母にはそれを叱る力は残っていなかった。K氏は、二人の介護に数年をかけ、それぞれ、こぢんまりしたお見送りを済ませた。功成り名を挙げた同級生たちからは同窓会のハガキが送られてきたが、皆破り捨ててしまった。

 「私」は今まで何をして来たのだろう?
 K氏は、「失われた時」を取り戻さなければ、自分に何の価値も見出せず、この先、生きて行けないような気がした。自分の人生に価値があったのかどうか確認の作業をせずには居られなかった。
 彼は、再び上京し、世田谷区三軒茶屋の馴染みだった珈琲店に向かった。
 町並みがすっかり変わってしまい、確か珈琲店が在ったはずの場所には「百円均一ショップ」が出来ていた。かつての珈琲店主の消息を知る者は居なかったし、またK氏を知る者も誰も居なかった。K氏自身の記憶も風化し、「私」までもが消滅するところだ。
 「私」は一体何なのか?記憶の底に残った最後の問いだ。確か、仏陀は「人は記憶と感覚の寄せ集めである」と言った。「私」は「記憶と感覚の寄せ集め」だったのか?それが、思索に半生を費やしたK氏の結論なのか?それなら、これをメインテーマとして、自分の生きた証(あかし)を描いてみよう。そんな生きる理由ができたことが、K氏にとって一条の灯火となったのである。


     青森県医師会報 平成28年9月 640号 掲載


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