変 身
内科医のK先生は長年の開業医の生活を引退して、悠々自適の暮らしに入りたいと考え始めた。開業時の多額の借金がその返済の峠を越えて、重かった首輪が緩み始めたからだ。
K先生は、医師になって数十年余り、絶えず走り続けて来たのだ。その疲労と加齢は誰の目にも明らかだった。視力、聴力、記憶力が低下し、体力、気力が衰え、頭髪を失い、腰痛や坐骨神経痛に悩みながら、猫背になって小刻みに歩いていた。患者さんの老いに自分の老いを見出すと、感情的になって患者さんに辛く当たる。うっかりミスを重ね、職員たちから迷惑そうな顔をされる。夜中の急患への対応や往診は体力的に無理となったし、昔に比べたら重症患者さんへの対応に自信がなくなった。そんな自分を尊敬できなくなったのだ。ご縁あった年上の方々が次々と他界し、若い見知らぬ顔が増えるに従って、生地であったこの町が自分にとって何だったのかと思うようになった。その分だけ、自分を支えてきた地域医療への使命感も薄らいで来た。地域医療って何?医師の使命感って何?自分で勝手に使命と思い込んで、高揚して自縄自縛となり、燃え尽きているだけじゃないか!すべてが億劫で、すべてに悲観的で、ついに自虐的となったK先生は、まるで自分が虫ほどにも役に立たないと感じてしまうのだ。自分って一体何なんだ?
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K先生は、学生の頃に戻って気持ちを新たにしようと考えた。書斎の隅には、多感な学生時代に読んだ新潮文庫が、段ボール箱に詰められて埃(ほこり)を被っている。医師となってからは医療に没頭しようと思い、梱包用テープで縛って封印したのだ。今こじ開けてみると、昔の文庫本は黄ばんで湿って黴(かび)臭くなっていた。その中の薄い一冊を引き抜いてみたら、カフカ作「変身」だ。確か不条理文学の代表作だ。今晩は久し振りの読書にしようと決め、これを手にして書斎のソファーベッドに潜り込んだ。
この短編小説の粗筋は次の通りであった。
主人公の独身青年グレゴールが、或る朝に奇妙な夢から目覚めると、自分が一匹の巨大な毒虫に変身していることに気付いた。彼は、ベッドの上で仰向けのまま身動きできず、憂鬱な気分で考えた。
グレゴールの父は、事業に失敗して多額の借金を抱え、家に籠もっていた。グレゴールは、一家のただ一人の働き手として、歩合の良いセールスマン稼業に転職したのだった。不規則な食事、目まぐるしい人付き合い、毎夜のように変わる宿泊場所、公私の間断ない引き合いなどで疲れ果てていた。彼は、早く借金を返してサラリーマン稼業を辞めたいと考え始めていた。
その朝、グレゴールが出勤して来ないので、勤務先の上司が様子を見にやって来た。上司と家族が一緒になってドア越しに声を掛けると、グレゴールは起きられない理由を自室の中で懸命に説明するが、獣のような声で意味が分からない。彼はやっと起き上がると、内からドアを開けて皆の前に姿を現した。一同は巨大な毒虫の姿に驚愕し、気が動転した父は彼を部屋に蹴り込んでドアを閉めてしまった。
これまで一人で家計を支えてきたグレゴールは、こうして家族の厄介者となり、自室へ閉じ込められてしまった。それでも情愛を示していた妹は、ドアの下から食事を差し入れてくれたが、彼の姿には恐怖を感じていた。食べ物は腐った残飯を好むようになった。グレゴールが母に面会しようと部屋を抜け出ると、遭遇した母は卒倒してしまう。居合わせた父は彼にリンゴを投げ付け、それが彼の背中にめり込んで疼(うず)くように痛んだ。それまでグレゴールを支持し助けてきた妹も遂に兄の追放を宣言した。彼は、家具が片づけられた独房のような部屋で無為に過ごし、体がすっかり弱り果てた。薄れ行く意識の中で、いずれ自分がこの世から姿を消さなければと覚悟する。
変身から数か月が経った或る朝、グレゴールが痩せ細った小さな虫の姿のまま自室でひっそり死んでいるのを、家族が発見する。家族はほっとして、過去を忘れて再出発することにする。父は再び外へ働きに出て、母は内職を始め、妹は売り子の仕事を始めた。親子三人は希望を感じて、春の暖かい日差しの中、ピクニックに出掛ける。
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K先生は、久し振りの「変身」を読み終えると眠りに落ちて、不気味な夢を見始めた。
その夢の中で、K先生が或る朝、書斎のソファーベッドで目覚めると、自分が一匹の巨大な毒虫に変身していることに気付いた。彼は金縛りに遭ったような憂鬱な気分で考えた。
K先生は、父母と妻と娘たちと暮らしている。K先生は、一家の中でただ一人の働き手として、歩合の良い開業医に転職したのだった。不規則な診療、モンスター患者やその家族との目まぐるしい対応、夜中の電話、四六時中の拘束などで疲れ果てていた。彼は、早く借金を返して開業医を辞めたいと考え始めていた。
その朝、K先生が出勤して来ないので、医院の婦長が心配して様子を見に自宅の方へ入って来た。妻と婦長が書斎のドア越しに声を掛けると、K先生は起きられない理由を自室の中で懸命に説明するが、獣のような声で意味が分からない。彼は、やっと起き上がり、強度の円背で、カサカサと六本肢を繰りながら歩いて行って、内からドアを開けて二人の前に姿を現した。二人は巨大な毒虫の姿に驚愕し、気が動転した妻はK先生を書斎の中に押し戻してドアを閉めてしまった。
これまで大黒柱だったK先生は、こうして家族の厄介者となり、書斎へ閉じ込められてしまった。急きょ医院正面には「本日休診」の札が出された。それでも愛情を示していた妻は、ドアの下から食事を差し入れてくれたが、K先生の姿には正直のところ恐怖を感じていた。食べ物が変化して強烈な臭いの発酵食品を好んだ。K先生が母に面会しようと書斎を抜け出すと、遭遇した母は卒倒してしまった。居合わせた父は彼に「跡継ぎの医者は居るのか!」と言葉を投げ付ける。それが彼の胸中に突き刺さり疼くように痛んだ。それまでK先生を理解してきた妻や娘たちは遂にK先生の追放を宣言した。K先生は、本棚の中に埋もれて無為に過ごし、体がすっかり弱り果て、薄れ行く意識の中で考えた。生地であるこの町で、自分を育ててくれた方々のために尽くそうとした、その使命感が薄れたら自分は終わるのだと。自分は一体何なんだ?K先生は底無しの奈落へ落ちて行った。
「本日休診」の札を出してから数か月が経った或る朝、K先生が痩せ細った小さな虫の姿のまま本の間でひっそり死んでいるのを、家族が発見した。皆はほっとして、過去を忘れて再出発することにした。医院は閉鎖され解体され、更地に戻った。父と娘たちは会社勤めに出て希望を感じ始め、家族旅行の計画を立て・・・
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読書の翌日の朝、今度は本当に夢から目覚めたK先生は、ソファーベッドから転落して、床板に横たわっていた。全身が甲殻のように硬い。横臥したまま、寝違えた首筋を撫でつつ考えた。
自分は今まで「人生は不条理だ」と嘆いて暮らしてきた。その嘆きは結局は何の役にも立たなかったし、その結果がこの「巨大な毒虫」だ。これって一体何なのかと考えたが分からない。いや、むしろ、「自分が何なのか」分かっている人など居ないのだ。殆どの人は、自分が「毒虫」かも知れないことに気付いていないのだ。人は誰でも人生の途上で突然「毒虫」に変身する。自信を失った時の自己否定から。社会から食(は)み出た時の存在の不安から、等々。そうしたものを経ながら生きていくのだ。「自分が何なのかを決めるのは、自分であり、他人である」からだ。
K先生の今回の「毒虫」は何だったのか?分からなければ、今しばらく前へ進むしかなかった。もう若くはないが、自分の怠け癖を叱って、もう少しだけこの町のために頑張ってみるしかなかった。
突然、ドアにノックの音がして、奥さんが「朝ご飯です〜」と言っている。
「ああ、お早う」と返事するK先生の声は、獣のようでなく、何時もの声だった。
青森県医師会報 平成27年 7月 626号 掲載