私は誰?                     目次に戻る


 西暦20xx年。夜の帳(とばり)が降りた旧市街地の上空に、夜陰に乗じて一艘の小型宇宙船が停留していた。船内には二人の宇宙人がいて、それぞれ双眼鏡を覗きながら、こんな会話をしていた。
 
【操縦士】 隊長どの!ついに我々は銀河系太陽系第三惑星の日本にやって来ました。早いとこ適当な日本人を拉致して帰還しましょう!
【隊 長】 まあ、待ちなさい。急いては事をし損じる。もとより、我々の惑星では高齢化と認知症が問題化している。我々は、その対策の研究のために「日本人の認知症患者を一人拉致して研究材料に供せよ」との命令で、ここまでやって来たのだ。何しろここ日本は宇宙でも最も高齢化が進行している地域なんだからね。
 おや?あのローソンの看板の前を行く、あの男が適材のようだ。スターバックス・コーヒーの前で立ち止まって匂いを嗅いでいる、あの男だ。
【操縦士】 はい!では、我々が開発した「心象風景盗撮装置」を用い、あの男の心象風景を覗いて、認知症の程度を測定します。スイッチ・オン!
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 #$%&@*?・・・ どうも道に迷ったようだ。散歩を兼ねて郵便局まで出たのに、見知らぬ街を旅しているみたいだ。この辺りは昭和の懐かしい町並みが続いている。金鳥蚊取り線香やオロナイン軟膏、オロナミンCなんて看板が見える。赤塗りの円柱型ポストが立っていて、その上の電信柱には裸電球が点灯している。七輪で魚を焼く匂いがするぞ。
 ああ、やっと家の前だ。おや?玄関が開いていて、家内が警官と立ち話している。何事だ?警官がこちらを向いて、「ああ、この方ですか、ご主人は。お帰りなさい。奥様が大分ご心配されて電話を下さったものですから、こちらへお邪魔しておりました。お一人での外出は控えた方が宜しいですね。一応お名前を確認させて下さいね」と言う。最近の若い警官はどこか私を小馬鹿にする。それでも、「私は○○という者だ!」と名乗ろうとしたが、名前が出て来ない!その場を上手くやり過ごしながら、暫く考えてみたが、どうも分からない。私は誰?私は何?警官は、「それでは、私はこれで失礼します。事件性は無いということで、内々に処理して置きますのでご心配なく」と言って去った。ふん!何が内々だ、恩着せがましい。
 最近、何事も億劫だし、私の周囲で妙な事が多くなった。連絡も無く予定が変更されている。家の中で物がなくなる。誰か盗人がいるのか?家内だな?家内のやつが「この頃あなたと一緒に居ると、まるで木石とご対面してるみたいよ」と言う。それなら悟りを開いた禅僧のようで、良いことじゃないかと言ってやった。・・・#$%&@*?
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【操縦士】 我々の「心象風景盗撮装置」によれば、彼は典型的な認知症のようですが、認知症が進行すると、悟りに近づくんですかね?
【隊 長】 調べてみよう。地球人のインターネットに接続して、「自我」を検索してみよう。おお、釈迦、ヒューム、バジーニなどがヒットしたぞ。
 釈迦が言っている。人間は、経験・思考・感覚などの寄せ集めであり、「私」という実体はない(諸法無我)、と。
 経験哲学者ヒュームが言っている。人間は、経験と感覚の「束」であり、これが「私」という感覚をもたらしているのであって、統一された自己や魂というものはない、と。ほぼ釈迦と同じ事を言ってるな。
 最近では、哲学者バジーニが、神経科学的な研究から、その著書「エゴ・トリック」の中でこう言っている。脳が、「断片的な経験や記憶」を組み合わせて、「統一的な自己感覚」を生じさせ、あたかも自律的で自由な意志を持つ「私」が存在するかように、錯覚させているのだ。この仕掛けを「エゴ(自我)・トリック」と名付けよう、と。
 なるほど・・・。地球人はこんな仕組みの生物だったのか!
 そもそも悟りとは、「私自身が幻だ」と感得することなのだ。なのに、認知症では、神経細胞の脱落によって、脳の「エゴ・トリック」作用が失われ、「私」が消えてしまう。認知症と悟りは似て非なるものだということになるね。釈迦も言っている。「終生、修業を続けなさい」とね。残っている脳細胞を掻き集めれば、「悟り」を求めることは可能だと言っているのだろう。
 「私」が単なるトリックの産物だとなると、「私は何?」なんて問いには答えがないのだろう。地球人は、生まれて暫くは条件反射によって生きるが、やがて自我の意識が芽生えると、「自分探しの旅」を始める。だが、その旅の果てには何も無いということだね。相変わらず条件反射で生きているに過ぎない、そう気付けたら上々というものだ。
 さて、地球人のインターネット情報から判明した通り、地球人の脳は我々の脳と違って、トリックによって成り立っているものだ。こんな生物を拉致しても研究材料になるまい。仕方がない。他の惑星を当たってみるぞ!
【操縦士】 了解、隊長どの!
 
 小型宇宙船は、方向転換すると、音もなく夜陰に乗じて去って行った。

     青森県医師会報 平成27年 5月 624号 掲載


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