千の風になって
昭和46年、K子さんは、高校を卒業すると、教師を目指して教育学部へ入学した。上京して間もないある日、K子さんは、友人に誘われるまま、新宿の「歌声喫茶ともしび」という喫茶店へ初めて行ってみた。
店内に足を踏み入れると、そこは一つの大きなホールになっていて、中央に「上條恒彦」のような合唱リーダーが立ち、隣にピアノ伴奏者が控えていた。ふたりを囲んでたくさんのテーブルが並び、青年男女が席を埋めていて、一杯のコーヒーを注文して座り続けているのだった。やがてリーダーが大きく手を振りながら、
「次のリクエスト曲は、ロシア民謡『黒い瞳』です。さあ皆さん、ご一緒に歌いましょう!」
と呼びかけると、ホールいっぱいの青年たちは、テーブルに置かれた歌詞帳のページをめくり、リーダーの指揮に合わせて一斉に歌い始めたのだ。歌詞帳には、文部省唱歌、ロシア民謡、労働歌、反戦歌など、皆が良く知っている曲が並んでいた。
彼らのほとんどが集団就職などで単身上京したばかりの若者であり、その歌声は彼らの心の寂しさを埋め、連帯感を育んでいるようだった。彼らは人生を意気に感じて心が高揚していたし、労働運動や学生運動に明日の夢を見て胸を熱くしていたのだった。
その中に理科の教師を目指す一人の青年がいた。K子さんは彼と意気投合し、恋に落ち、結婚に至った。それも至極当然のことであった。
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それから40年ほどの星霜が流れた。K子さんの家庭では、親が教師で共稼ぎながら、子供たちは順調に育ち、次々に巣立っていった。子供たちと一緒に暮らせるのは思いのほか短いものなのだ。再び二人暮らしとなった頃、K子さんたちに不幸が待っていた。
慢性的な体調不良を訴えていた夫が白血病だと判明したのだ。化学療法で小康状態を得た夫は、にわかに仏教書を読み漁るようになり、やがて理科の教師らしい理解を得るに至った。その頃から、「三界は虚妄にして全て是れ一心の作なり」(欲界・色界・無色界は全て心が作った幻である)など、K子さんに説明して聞かせることが多くなった。
くすぶり続けた白血病は、ある頃から化学療法に反応しなくなり、やがて急増悪すると、夫はひどく苦しむこともなく最期を迎えた。通夜・火葬・葬式・初七日と慌ただしく法事が営まれた。多忙と心労で、K子さんはこの間をどう過ごしたのか覚えていない。子供たちや親類縁者らが、それぞれの目的でやって来て、用を済ませると、それぞれの持ち場に帰っていった。四十九日の法要も済むと、もう故人との二人暮らしになっていた。
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K子さんが夫の遺品を整理していると、「歌声喫茶ともしび」の歌詞帳が出てきた。
K子さんは、会葬お礼のご挨拶を兼ねて上京し、思い出の「ともしび」を訪ねてみた。ほとんどの歌声喫茶は廃業したというが、ここだけは、かつてを懐かしむ年配の常連客に支えられて残っていたのだ。
懐かしい店内に足を踏み入れると、丁度「さとう宗幸」のような合唱リーダーが立ち上がり、
「今日もたくさんのリクエストをいただきました。最後は『千の風になって』です。さあ皆さん、ご一緒に歌いましょう!」
と呼びかけた。ピアノの入念な序奏に導かれて、朗々たる歌声が湧き上がった。
「私のお墓に佇み泣かないで下さい。私はそこに居ません。死んでいないのです。光になって、雪になって、鳥になって、星になって、吹き渡る千の風になって、あなたを見守っています」
皆と一緒に歌い始めたK子さんは、かつてのように、夫と一緒に歌っているような気がして、知らず知らずのうちに力を込めて歌い続け、いつしかほとんど叫ばんばかりに歌っていた。K子さんは、胸に熱く込み上げて来て、両の眼の涙は堰を切って流れ頬を伝った。
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K子さんは、独居の家へ帰ろうと列車の座席に着いた。動き始めた車窓から、流れる夜空の星を眺めながら考えた。理科の教師であり、仏教書を読んでいた夫なら、きっとこう言って私を慰めるでしょう。
・・・あなたが歌ったあの歌は、私が光や雪や鳥や星や千の風になったと歌い、自然の中に故人を見ようとします。その気持はあなたに馴染のものです。でも、理科の教師だった私ならこう歌いますよ。
「私のお墓に佇み泣かないで下さい。私はそこに居ません。死んでいないのです。私はあなたの中の、大脳の記憶野に居て、千の電気信号になってあなたの脳神経ネットワークの中を流れ続けています」と。
更に言えば、光や雪や鳥や星や千の風は、全てあなたの感覚細胞が作った幻です。同じ様に、私も、私の思い出も、全てあなたの感覚細胞が作った幻です。ですから死別の悲しみも幻です。だから、心配いりません・・・
そう言う夫の説明が聞こえて来そうで、K子さんは気持が少しだけ楽になっていた。
青森県医師会報 平成26年 9月 616号 掲載