三界は虚妄にして
K先生はいつもの往診に出掛けた。これから向かう患家のAさんは、診断が「レビー小体型」認知症だ。認知症の中でも、幻視、錯視を特徴とするものだ。
幻視とは、存在しない人や小動物が見えるもので、Aさんの場合は、
「夕方、部屋が暗くなると、知らない子供たちが部屋で遊んでいるし、亡くなった夫や義父が何か言いに出て来たり、知らない人が勝手に部屋に入って来るので怖い」
と息子夫婦に話し、仏壇に手を合わせている、というものだった。
錯視とは、壁のシミやカーテンのシワなどが人の顔や小動物に見えるもので、Aさんの場合は、
「夜になると壁のシミが幽霊のように見えるし、寝床に入って見上げると天井板の木目模様が異様な化け物となってこちらを窺(うかが)っているし、脱ぎ捨てた衣類や靴下がネズミかイタチみたいになって襲って来そうで、怖い」
と言い、それで深夜でも電灯を明々と点けたまま寝ないで起きて居る、というものだった。これらの幻視と錯視による恐怖がAさんを不穏状態に追い込んでいるのだ。K先生だって幼少の頃は暗闇が怖かったのだ。でも、息子夫婦は、
「何をこの科学の時代に座敷童(わらし)でもあるまいし。シミはシミだし、シワはシワだ。想像を逞(たくま)しくするのもいい加減になさい、いい年をして!」
と叱って、取り合わずにいるというのだ。
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患家に着いたK先生は、早速Aさんに「変わりは無いですか?」と尋ねた。Aさんは、
「いま隣の部屋で知らない子供たちが遊んでいるの」
という。K先生が、その北側の薄暗い部屋を覗いて見ても誰も居ないのだが、それでも、先生の目が正しくてAさんの目が間違いだと言うわけにはいかない。Aさんは「見える」といって譲らないし、人は一度目にしたものは信じて疑いようがないのだ。
そもそも、正視と幻(まぼろし)とに区別があるものか?本物の音と空耳とに区別があるものか?手足の感覚と切断された手足の幻肢感覚とに区別があるものか?次第にK先生の疑問が膨らんで行く。それなら究極のところ、自分が生まれてこのかた、見えるもの聞こえるもの五感で感じるもの全てが幻でないと誰が言えるのだ!
そもそも、人の脳は500億個の神経細胞のネットワークで出来ていて、人はその中で「世界を見ている」のだ。K先生もご自身のネットワークの中でご自身の「世界を見ている」のだし、Aさんも、亡夫、ご先祖様、他人、見知らぬ子供たち、得体の知れない小動物まで、全てがAさんのネットワークの中に居て、確かに「それらを見ている」のだった。
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Aさんの枕元には小冊子が置かれていた。最近、奈良の東大寺にお参りして来たといい、そこは華厳宗の総本山であって、「華厳経」を根本経典としているのだという。その教えを易しく説いた小冊子を貰って帰ったのだ。その冊子の中には次のような説明があった。
「欲界・色界・無色界は全て幻であって、それは心の外にあるのではなく、全て心の働きによって作られたものである」
とあり、これを端的に表現した有名な一文で締めくくられていた。
「三界は虚妄にしてただこれ一心の作なり(三界唯一心)」
驚きだった!三世紀の中央アジアで成立した経典に既にそう書いてあったのだ!
医師であるK先生ならこれを読み替えて、
「世界は全て幻であって、それは脳の外にあるのではなく、全て神経細胞のネットワークによって作られた幻である」
と理解したいところであった。三界(世界)が虚妄なら、絶対的なものはない。そう考えたK先生にどこか安堵感が満ちてきた。
K先生は、息子夫婦に、
「Aさんの身になって心境を理解してあげようね」
と説明し、内服処方は控えめにして、患家を後にしたのだった。
青森県医師会報 平成26年 7月 614号 掲載