次の救世主                   目次に戻る


 
西暦20××年夏、日曜日の早朝。K神父は教会の庭仕事に悪戦苦闘していた。庭のバラの枝は伸び放題で、それを切るのに難儀した結果、満身創痍といっても過言ではなかった。丸太を背負って運んだらギックリ腰してしまったし、両手両足にはバラの棘を刺してしまった。それでも今日は日曜礼拝を控えているので、老体にムチ打たざるを得なかったのだ。

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 K神父は今日の礼拝にイエス・キリスト受難の経緯を準備していた。彼は訴えた。
 皆さん!私たちのイエス様は元はユダヤ教徒だったのです。でも、彼がユダヤ教を超えて、全ての人類への博愛を説いたことによって、キリスト教が成立したのです。しかし、それがためにユダヤ教の大司教らの怒りを買い、十字架への道を歩まざるを得なかったのです。彼の尊い犠牲によってこそキリスト教が成立したのです!
 そして今、この地上ではキリスト教やイスラム教、そして仏教までもが対立を深めています。今こそ一つの宗教を超えて、全人類の平和を願う時なのです。キリスト教を超える次の救世主が「世界宗教」を成立させるのです、皆さん!
 庭仕事の疲れが彼の心のブレーキを外してしまったのか、日頃の思いを吐露した今日の説教で、彼は神父としての一線を超えてしまったのだ。感極まったK神父は、今日の礼拝を早めに終えると、少し休むことにした。ソファに横になるとたちまち眠りに落ち、夢を見始めた。
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 夢の中で、K神父はエルサレム郊外の道を、ゴルゴダの丘の刑場に向かって歩いていた。信者をそそのかした罪で磔(はりつけ)の刑に処せられるところなのだ。頭にはバラの枝の冠を乗せられ、背には丸太の十字架を担いでギックリ腰が痛み、ムチ打たれた体は満身創痍といっても過言ではなかった。K神父は、キリスト教を超えて全ての人類への博愛を説いたので、ローマ法王や大司教たちの怒りを買ったのだ。沿道には多数の人々が群がった。彼の出鼻をくじこうとする同僚たちが彼に石を投げ、対立するイスラム教徒が石を投げ、仏教徒はこの騒ぎに関わることを恐れて佇んでいた。刑場に着いたK神父は、両手両足に釘を打たれ、十字架上に張り付けられた。
「神よ!私は間違っていたのですか!」
と叫ぶと、雷鳴が轟き、岩が割れ、大地が裂けた!
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 K神父は目が覚めた。教会の外では昨今のゲリラ豪雨が襲来していて、強い雨足がステンドグラスを打っていた。K神父は痛む体をさすりながら考えた。イエス様はこころざし半ばで逝かれたのか?全てを成し終えて逝かれたのか?いずれにしても、幾多の宗教がせめぎ合いを始めた現代の世界を、イエス様が良しとするはずはない。
 この世界を救うために、キリスト教徒の中から、これを超える次の救世主が現れるのであろうか?それは貴い偉大な犠牲と引き替えなのか?それは何時のことか?自分の命あるうちに望めることか?もし、自分の命あるうちに次の救世主が現れるのであれば、自分は「次の使徒ペテロ」になろう。K神父の祈りは尽きることがなかった。

     
青森県医師会報 平成26年3月 610号 掲載


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