ある人体実験                          目次に戻る


 西暦20××年。軍事国家を統率するK国家主席は、富国強兵に妙案はないかと思案に暮れていた。国威発揚のためには世界最強の軍隊を持つことが肝要だった。それには「死をも恐れぬ熱烈兵士」を育成することが第一なのだ。そう考えたK主席は、「そもそも死の恐怖は何処から来るのか?」という根本的な問題にぶち当たった。早速K主席は、この問題を解明するために特命組織を立ち上げよと、指令を飛ばした。
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 招集されたメンバーは人民大会堂に馳せ参じ、それぞれの立場で見解を述べ始めた。
 神経解剖学者「大脳にある扁桃核を破壊されたサルは蛇を恐れなくなるので、死の恐怖は神経回路の構造がもたらす副次的産物でしょう。この構造は遺伝子によって設計されているのですから、死の恐怖は生まれつき(先天的)なのです」
 経験哲学者「人間は生まれたとき白紙なのです。そこに経験が書き込まれて、それが人格と成るのです。死の恐怖は生後の経験からもたらされるもの(後天的)なのです」
 牧師「人間は知恵を得て楽園を追われ、死を恐れるようになったのですから、死の恐怖は人間の属性なのです(先天的)」
 仏僧「生まれながらに無明の内をさ迷う衆生は死を恐れるものじゃ。死の恐怖は前世からのもの(先天的)ですぞ」
 民俗学者「家族が亡くなると子供を強制的に遺体に面会させる習俗があります。ほとんどの子供たちはお寺にある地獄絵図を見せられて死後の世界を学ばされたのです。死の恐怖は教育なのです(後天的)」
 頭が錯綜してしまったK主席は、
「死の恐怖が先天的なのか後天的なのか、科学的に実証せよ」
と言い残して席を立ってしまった。
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 そもそもこの国家は閉鎖的で前近代的だと非難されて来たのだ。そんな国家において、このような哲学的な命題を科学的手法によって解明せよという世界最先端の指示が下されたのだ。特命組織は奮い立った。
 早速、非人道的な人体実験が企画された。
 即ち、実験群として、生まれたばかりの赤ん坊100人を、世間から隔絶した施設に収容して兵士として育てるのだ。ここで使われる教科書からは、老、病、死の言葉はもとより、これらに関連する内容は全て削除される。この施設の敷地を高い煉瓦塀で四角に囲い、その中からは老人、病人、死人はもとより、小鳥や犬猫から家畜に至るまで、老いたもの、病んだもの、死んだもの全てが、当局の手によって瞬く間に取り除かれるようにする。
 一方、対照群としての赤ん坊100人は、この国の飢えと貧困の最中にある生老病死を目の当たりにしながら兵士として育てられる。
 この両群の間で、死の恐怖の発生について、有意差が認められるかどうか、前向きコホート研究がスタートしたのだった。
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 10年、20年と時が経ち、膨大なデータが積まれた。実験は終了し、成年した兵士たちは解放され、隔離施設から生まれて初めて外に出た。東門から出た者は路上にうずくまる老人を見て、南門から出た者は路上に伏して苦しむ病人を見て、西門から出た者は路上に往き倒れた死者を見て、それぞれ世の無情に打たれたのだった。出家する者が多発した。彼らにとってこれからが本当の人生なのだった。
 膨大な資料から電話帳のように厚い報告書が作成されK主席に上奏された。K主席は、統計データを読むのは苦手なので、目次から結果まで全て飛ばしてしまって、「まとめ」の一部だけを読んでいた。「敵国に勝利しようとする様はオリンピック選手のように爽やかで強靱であった」とあるのでK主席は喜んだが、「費用対効果の面でこの作戦は再考を要する」とあったので、K主席は再び思案に暮れてしまった。

     
森医師会報 平成24年10月 593号 掲載


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