ミリンダ王の問い                          目次に戻る


 K先生は、「iPS細胞」学会の会場を後にした。「人の細胞から作ったiPS細胞を利用してその人の内臓が新調できる」というのだ。医学の進歩に驚きながら帰路に就いたK先生は、書店の店頭で平凡社東洋文庫「ミリンダ王の問い」という本に目が留まった。帯紙には「アレキサンダーの東方遠征によって西洋(ギリシア思想)と東洋(仏教)が地球上で初めて出合った!」と書いてある。巻末の解説によれば、ミリンダ王はギリシア人で、西北インドを統治した王であり、仏教の高僧ナーガセーナに教えを受け、仏教に帰依した王であるという。
 K先生はこれを買い求めると足早に駅に向かい電車に乗り込んだ。着座すると、早速この文庫の中ほどを開いてみた。そのページの内容はおよそ以下のようだった。

               ☆
 ・・・ミリンダ王は尊者ナーガセーナを訪れた。和やかに挨拶を交わして着座すると、こう質問した。
「尊者よ、変化する物はその前後で同じ物ですか別の物ですか?」
「大王どの、ある男が夕暮れに燈火を点せばその燈火は夜通し燃え続けるでしょうか?」
「尊者よ、もちろん、その燈火は夜通し燃え続けるでしょう」
「大王どの、では、夕暮れの炎はそのまま真夜中の炎と同じでしょうか?」
「尊者よ、いや、そうではありません」
「大王どの、では、真夜中の炎はそのまま明け方の炎と同じでしょうか?」
「尊者よ、いや、そうではありません」
「大王どの、では、夕暮れの炎、真夜中の炎、明け方の炎、それぞれ別々の物でしょうか?」
「尊者よ、それらは同一の原因によって起こる現象であり、完全な別物ではありません」
「大王どの、(燈火のように)事象の連続において、生ずる物と滅びる物とは別々の物のようでありますが、一方と他方とが互いに原因と結果の因果にあり、同じでなく異なるのでなく・・・

               ☆
 学会の疲れと電車の心地好い振動のせいで、K先生は文庫を膝に載せたまま眠りに落ち、夢を見始めた。その夢の中で、K先生は、紀元前一世紀の西北インドに降り立つと、尊者ナーガセーナを訪れていた。和やかに挨拶を交わして着座すると、こう質問した。
「尊者よ、生きとし生ける物はその前後で同じ物ですか別の物ですか?」
「医師どの、ある女が妊娠したとして、その受精卵は細胞分裂を一生続けるでしょうか?」
「尊者よ、もちろん、受精卵は細胞分裂を一生続けるでしょう」
「医師どの、では、受精卵はそのまま、成長途上の人と同じでしょうか?」
「尊者よ、いや、そうではありません」
「医師どの、では、成長途上の人はそのまま、iPS細胞によって復活した人と同じでしょうか?」
「尊者よ、いや、そうではありません」
「医師どの、では、受精卵、成長途上の人、iPS細胞によって復活した人、それぞれ別々の物でしょうか?」
「尊者よ、それらは同一の遺伝子によって起こる現象であり完全な別物ではありません」
「医師どの、(生命体におけるように)事象の連続において、生ずる物と滅びる物とは別々の物のようでありますが、一方と他方とが互いに原因と結果の因果にあり、同じでなく異なるのでなく・・・
               ☆
 いつもの駅に着く頃、K先生は目覚めた。自分は、受精卵から始まった細胞の塊だ。無数の細胞を新陳代謝させながら生きている。もしiPS細胞を用いて自分の老いた細胞を新調すれば、永遠に生きて行けるかも知れない。そんな「細胞の集合体」として生きている自分とは一体何物なのだろう?K先生にとって「ミリンダ王の問い」は更なる根源的な「問い」へと連なっていた。 


     
青森県医師会報 平成24年 8月 591号 掲載


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