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 西暦20xx年3月31日、夜。K先生は、トランクを片手に、発車ベルの鳴るプラットホームを歩いていた。売店の書棚からカフカ「城」の文庫本を買い求めると夜行寝台列車に乗り込んだ。定刻に出発した列車は街の灯りを抜け出ると夜の底を黙々と走り始めた。車体の軋る振動に包まれて、K先生は久し振りの開放感と少しの寂寥感に囚われていた。大学病院で臨床経験を積み、医学博士の学位も取得し、その「お礼奉公」として大学医学部の関連病院へ赴任する途上なのだ。独身のK先生は、遠隔地のX病院へ行ってくれないかと、医局長先生から打診された。K先生は、医学という「人体を扱う厳格で几帳面な学問」を長年勉強して来たのに、いつも何処か満足できない心の飢えと渇きを感じていた。それは自分が医学や医局に不向きな所為かと考えた。それなら医学の牙城たる大学医局から離れてみるのも一計だと考え、二つ返事で意向に従ったのだった。

 寝台に横たわると買い求めた文庫本を取り出した。今まで医学書ばかりだったK先生にとっては、カフカ「城」なんて久し振りの文学書だ。
 その粗筋はおよそ次のようだった。
 ある冬の晩、主人公のKは雪深い寒村の宿屋に到着する。この村はW伯爵の城の所領であり、Kはこの城に雇われて来た測量士であった。宿屋で一夜を明かし、翌朝に城を目指すが道が分からず、散々歩き回った末に夕方宿屋に引き返すしかなかった。城の雇われ人夫だという者に聞いてみると、許可がなければ城に入れないという。城の執事にやっと電話が繋がると、おまえは永久に無理だろうという旨のことを言われる。城からの使いだという者が来てKに手紙を渡し、直接の上司は村長だという。村長を訪問すると、城では全く測量士を必要としていないと言い、村の行政機構の仕組みを長々と話して止まない。宿屋に戻ると村長からの使いだという者が来て、Kに測量士としてではなく、学校の小使としてなら雇えるがと伝えてくる。Kは仕方なく引き受けるが・・・と、いつまで経っても測量士Kは城に入れないのであった。「城」はそういう抽象的な物語が続く未完の長編だ。
 それがあまりに長々と続くので、K先生は文庫本を顔に載せたまま窮屈な寝台の中で眠りに落ちた。頭の中では、小説世界とK先生の現実世界とが混沌と入り乱れていた。

 その時だ。K先生の頭の中ではっと理解が行った。「城」を巡りながらも永遠に辿り着けない測量士Kの姿と、「人間の本質」を巡って医学的な努力を重ねてもそこに辿り着けないK先生の姿とが重なったのだ。辿り着けないその理由はと言えば、医学は、より健康に長生きするための実用的な応用の科学であり、人類にとって手段であって目的ではないからだ。医学は、体を良くする学問であって心を満たす究極の学問ではないからだ。今までK先生は幾つもの医学論文を書いてきた。しかしどの論文が彼の心を暖めてくれただろう?どの論文が彼の心を支えてくれただろう?K先生がいつも何故か心の飢えと渇きを感じていたのはこのためだったのだ。自分の違和感は恥ずかしいことではなかった。あのゲーテの「ファウスト博士」だって、医学をはじめ多くの学問を修めながらも、満たされることなく、悪魔メフィストフェレスに魂を売ったのではなかったか!

 何か胃の腑に落ちるものがあって、K先生は寝台の中でぐっすりと眠った。明け方、寝台列車は赴任先の寒村の駅に滑り込んだ。さて、何から始めようか。K先生の心は次を求め始めていた。

     青森県医師会報 平成23年4月 575号 掲載


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