胡蝶の夢                    目次に戻る


 K君は仕事を終えてアパートの自室へ帰って来た。コンビニ弁当で夕食を済ませると何時もの通りパソコンの前に座り込んだ。最近K君は出所不明のソフトをダウンロードした。それを使えば、パソコンの中にバーチャル(仮想現実)の世界が展開するのだ。現実の世界が思うに任せぬことばかりなので、K君は毎晩のようにバーチャルの世界へ遊びに出掛けるのだった。そこでは、もう一人のK君が主人公となって豪華な家に住み、仮想の街を散歩したり、ギャンブルで大儲けしたり、どこかの街角で理想の女の子に巡り会えたりするのだ。そこでのK君は万能で頭が良くてカッコ良く、女の子にすごくモテるのだ。K君はそれをK’君と名付けて気持を一つにしていたのである。

 ある晩もK君はバーチャルの世界を立ち上げると、早速仮想の街へ遊びに出掛け、仮想の書店に入った。そこでは気の向くままに立ち読みができるので、難しい本を齧ってはすぐに放り出すK君には丁度よいのだ。たまたま手にした本が「荘子」で、その中の「胡蝶の夢」のページが開いた。そこには、「荘子が、夢の中で蝶になって愉しい時を過ごすうちに、もしかして逆に蝶が夢を見て荘子になったのかも知れないという気持になって、自分と蝶の区別が無い境地に遊んだ」という故事が書いてあった。なるほど、まるで自分のようだ!今のK君は現実世界の自分とバーチャル世界のK’君とを区別しようという気持はない。敢えて言えば、「自分と他者を分かたぬ境地」に遊んでいる自分は、荘子と同じぐらい高雅な境地にあるのかも知れないとさえ思えたのだった。

 K’君は本を置いて書店を出ると、今度はパソコン・ショップに入った。陳列台に並ぶ最新型パソコンの前に立つと、K’君はK君が使っているものと同じバーチャル世界のソフトを立ち上げ始めた。そして展開したバーチャル世界の中で仮想人物をあやつり始めたのだ。その時だ。K君は今までにない奇妙な感覚に捕らわれ始めた。まるで誰かにあやつられているような奇妙な感覚なのだ!そしてハッと気付いた。今まで、K君がK’君を動かしているのだと思っていたが、もしかして逆に、K’君がK君を動かしているのかも知れないのだ。パソコン画面のこちらとあちらと、どちらが現実でどちらがバーチャルなのか分からなくなった。人生そのものがバーチャルなら、こちらもあちらもバーチャルだ。 K君は背筋がぞっとして、とっさに自分のパソコンの電源を切ってしまった。
 それでも、誰かにあやつられているような奇妙な感覚がまだ続いていた。それはまるで「運命の糸にあやつられている」ような感覚なのだ!

     青森県医師会報 平成23年12月 583号に掲載


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