繭の中
K婆さんは百鬼夜行の闇に寝起きしていた。夜具にまどろむK婆さんの手足に無数の妖怪がまとわり付き、その度にK婆さんは悲鳴を上げて振り払う。それらは闇に去り、また忍び寄る。隣室に寝起きしている長男夫婦は助けに来る様子がない。あいつらも妖怪の仲間だったのかと思う。
障子の外が白み始め、群雀の響きの中、K婆さんは夜露のような寝汗をかいて浅い眠りから覚める。そう言えば、大事な貯金通帳が無くなった。盗人が持ち逃げしたのだ。あの盗人は何処か息子に似ていた。誰か知らない女が家の中に居て、何か怪しい飲み物を置いて行った。何が入っているか分かりゃしない。うっかり手を出すもんじゃない。この頃暫く夫に会っていない。何処へ行ったんだ。久し振りに長女に遇ったので、「お前は良くできた娘だよ、私の自慢の娘だよ」と声を掛けてやった。それにしても、ここは居心地が悪い。こんな所はさっさとおいとまして、実家に帰るのが一番だ。嫁に来た時の帯などをタンスから取り出して、帰る準備に余念がない。
長男夫婦によれば、このK婆さんは、昼はうとうとしていて、夜中には寝ながら大声を出すことがある。夫婦は初め何事かと驚いたが、寝呆けているのだと理解して、構わなくなった。夜中に起き出しては、ごそごそと貯金通帳の所在を確かめては、タンスの奥へ奥へと隠すので、遂には何処へ行ったか分からなくなった。それで息子が代わりに通帳を管理している。今日も嫁さんがいつものお茶を届けて来たが、さっぱり手を付ける様子がない。日中K婆さんが座っている居間には立派な仏壇があって、夫の遺影と位牌が真ん中に立っている。その隣にもっと古い位牌があって、それは長女のものだ。K婆さんは早くに長女を亡くしていたが、その長女を相手に良く独語していた。最近は、寝屋へ行ってタンスの帯を出したり入れたり、同じ動作を何度も繰り返していると言う。
K婆さんの百鬼夜行の闇を過去へと遡ると、童話が聞こえて来る。K婆さんは、幼少の頃から物語が大好で、その空想の中を自由に遊び回って居られた。成長して夢多き乙女となった彼女は、縁あってこの家へ嫁いだ。夫は実直で良く働き、長女は若くして失ったが、子供にも恵まれた。姑ともうまくやって来た。必ずしも順風満帆とは言わぬまでも、結婚生活は彼女の想い描いたものを大きく裏切ることはなかった。やがて子供らはそれぞれ配偶者を得て実家を去り、 K婆さんは今は長男夫婦と同居している。
嫁いだ家では蚕を飼っていて、 その世話はK婆さんの仕事であった。桑の葉で腹を一杯にした蚕が白い糸を吐きながら、あたかも一個の孤独な魂として繭の中に籠もって行く様子を見ていると、K婆さんは心が和んだ。何故かと孫に聞かれると、いつも綿入れを着ているK婆さんは、「
自分の姿と似ているからだ」と答える。しかし、K婆さんの気付かぬ別の理由がある。それは、蚕が自分の作った繭の中に生きていることと、K婆さんが自分の作った物語の中に生きていることとが良く似ているからだ。人はそれぞれ自分の想い描いた物語の中に生きている。
その張りぼての物語に包まれた中から、その人を追い出してはいけないのだ。K婆さんの物語を内側から想って見なければ、K婆さんの本当のことは理解されないのだ。
残念ながら、繭の中はいつまでも棲み心地良好ではなく、K婆さんの想い描く物語もいつまでも自由自在ではない。その物語の終わりの部分は勝手に百鬼夜行の闇となり、盗人になった息子を怪むことや、鬼籍に入った人たちとの再会に費やさざるを得なかった。その後その物語は、深い眠りをもって途切れている。
K婆さんが去った後の家には、K婆さんの育てた繭が蚕棚の中で干からびたまま遺されていた。
「はちのへ医師会のうごき」平成17年1月20日 427号 掲載