ルネサンス再び
西暦20××年、新春。文芸誌のK編集長は溜め息をついた。彼は自分の主宰する文芸誌の新春特集号の編集中なのだが、どうも面白くない。だがその理由は抵抗できないほど重大で確定的なものだった。それはこうだ。そもそも生命科学の発展は凄まじく、ワトソン・クリックによるDNA分子構造の解明に始まり、やがてヒト遺伝子DNAの塩基配列の解読が完了するに至った。さらに驚くべきは、ヒトの脳神経回路の接続が全て解読され系統図として完成したというのだ。無限の小宇宙とまで言われてきたヒト脳の全貌が明らかになって、ヒトの脳に出来ること出来ないこと、分かること分からないこと、その全てが明らかになったのだ。従って、ギリシアの昔から繰り返されてきた哲学・宗教・文学・思想などの論争が簡単明瞭に解決されたというのだ。脳科学者らが、「長い不毛の論争に終止符を打った。脳科学の勝利だ!」と、高らかに成果を歌い上げたのだ。文学界にとって面白いわけがない!
では、どんなふうに解決されたのかその具体例を簡単に列挙してみよう。
(例1)キリストは新約聖書の中で、「奇跡を見ずして神を信ぜよ」と説いたが、脳科学では、ヒトの脳は側頭葉の記憶野のデータを元にして前頭連合野で判断するので、見たことがないものは判断ができない。キリストの要求はヒトの脳の力を超えている、という結論である。
(例2)アルベール・カミュ「異邦人」では、主人公は、頭上の容赦なく照りつける太陽の輝きのせいだけでアラビア人を銃殺してしまう。彼の行為には意味も脈絡もなく、その後の悔恨もなかった。彼は社会通念によって裁かれ死刑の判決を受ける。主人公は典型的な不条理な人間として描かれている。でも脳科学では、彼の脳は原始的な条件反射の優位性と前頭連合野の未熟性と扁桃体などの大脳辺縁系の異常として説明されてしまう。
(例3)ドストエフスキー「悪霊」では、キリーロフという登場人物が、自分の自由意志で自殺することによって神の不在が証明され自ら神になれると主張し、実践してしまう。ところが脳科学が教えるところでは、神経細胞は生理学の法則に従って活動しており、神経細胞によって構築された脳の活動においては自由意志という概念は馴染まない、となる。
(例4)ダンテ「神曲」において追求された「死後の世界は?」という悠久の問いには、「神経活動が終了した後のことなのだから解るわけがない」と、にべもない。
あきれ果てたK編集長は、原稿を山積みした大型テーブルに突っ伏すと、すぐに眠りに落ち、夢を見始めた。その夢の中で、彼は、西暦1500年の中世イタリアで、ルネサンス発祥の都フィレンツェのとある工房の中に居る、という設定になっていた。
彼が突っ伏した顔を上げると、テーブルの上には死体が横たわり、独りの人物が死体の解剖に取り掛かるところだった。脳に蝋を注入して解剖し、それを克明にスケッチしている。どこかで見た風貌なので、「あんたは、レオナルド・ダ・ヴィンチか?」と聞いたら、「そうだ」という。
そこでK編集長はダ・ヴィンチに向かって思いの丈を吐露し始めた。
あんたは、キリスト教が森羅万象を支配してしまった暗黒の中世にあって、科学的な手法を駆使し、神の支配から人間を解放する先駆けとなった。ルネサンスの旗手だ。それはあんたの大変な功績だ。しかし、その後を追って例えばデカルトは「魂が宿るのは松果体であり感情や意識はここから発生する」などといい、次第に人間機械論を膨らませていった。西暦20××年、脳科学はとうとう行き着くところまで行ってしまった。森羅万象が全て脳科学で解決済みだといわれ、古来の哲学・宗教・文学・思想が不毛の産物だとして、二束三文で投げ出されてしまった。そして人々の人生は貧素なものに成り果てた。神の支配から人間を解放した筈のあんたらが、今度は人間を脳科学の支配下に落とし込んだのだ。再び暗黒の中世じゃないか!
黙々と筆を運んでいたダ・ヴィンチは、筆を休めず静かにこう答えた。
・・・死体脳も生体脳も、私から見れば彼は物質だ。そういう彼に私は言う「おまえは物質だ」と。しかし、彼は答えるだろう「私は精神だ(精神的存在だ)」と。立場の違うこれら二つの視点を混同してはならない。つまり、私が彼を物質として解明することと、彼が自由な精神であり続けることとは、別々のことなのだ・・・
K氏はハッとして目覚めた。そうか!脳科学者は一方の立場から全てをごり押ししているに過ぎないのだ。脳科学がどんなに進歩したって、われわれは何も変わっていないじゃないか。こんな時こそ脳科学の足かせから人間を解き放ち、古来の人間賛歌を再び高らかに歌い上げる時なのだ!よし、新春特集号のテーマとして「ルネサンス再び」を高く掲げよう!
K編集長は再び山のような原稿用紙に挑みかかるのであった。
青森県医師会報 平成22年 1月 560号(新春随想)掲載