症例はK.Kさん                  目次に戻る


 西暦20××年、定刻。市民病院講堂。

【 病理医 】ただ今より、臨床病理検討会を開始いたします。私は本日の司会進行役の病理医でございます。本日の検討会は、当院の新たな広報活動の試みとして、一般市民の方々へも公開されてございます。それに合わせ、本日は社会的関心の高い疾患を選び、ご提示することといたしました。症例は「心的外傷後ストレス障害の患者さんが後にアルツハイマー型認知症を発症した」という一例でございます。市民の方々のご質問にも極力お答え致しますので、たとえ素朴な疑問だとお思いでも、ご遠慮なさらずに、お尋ね下されば幸いです。それでは、主治医の先生、宜しくお願いいたします。

【 主治医 】症例はK.Kさん(仮名)、××歳、男性。
 生来健康で、既往歴、家族歴、生活歴で特記すべきことはございません。
 家族のお話では、Kさんは少年の頃から生真面目な方でした。太平洋戦争が始まって、招集令状が届いた時、Kさんは、「自分は運命など信じない。家族を守るため自分の自由な意志で出征を選ぶのだ」と、口外されていたそうです。出征され激戦地に送られたところで、戦友の玉砕を目の当たりにして、心的外傷を負ったと考えられます。九死に一生を得て帰還されてから後、夜中に恐怖で顔を強ばらせ、大声で戦友の名を叫ぶことが続いたそうです。この頃、当院を受診され、心的外傷後ストレス障害と診断されております。
 やがてKさんは50歳代になられて、記銘力・記憶力の低下、見当識障害が見られるようになり、これらが認知症の中核症状と考えられて、アルツハイマー型認知症と診断されました。病初期は短期の記憶を失い、次第に往事の記憶をも失って行きました。この頃から、Kさんの顔は恐怖の表情を失って、大声で叫ぶことも減って行きました。家族の言によれば「あたかも能面に近づく」かのように、全ての表情を失って行ったというのです。やがて、肺炎を併発され、××歳で永眠されました。
 それでは、頭部CT、頭部MRIおよび脳血流スペクトを提示いたします。ご覧のように、海馬や頭頂葉の脳萎縮および脳室拡大が認められ、頭頂葉や側頭葉の脳血流量の低下が認められます。
【 病理医 】先生、ありがとうごさいました。ここで市民の方々のご理解のために脳の概略をご説明いたしますと、そもそも脳は多数の神経細胞で構成されておりまして・・・(略)。
 それでは、剖検所見を提示いたします。マクロの所見は前述の通りです。ミクロの所見として、ほとんどの大脳皮質や基底核で神経細胞が変性脱落しておりました。

【 市民1】先生!家族のお話では、Kさんは、運命じゃなくて「自由な意志」で出征を志願したというお話でした。それなのに、お医者さんたちの説明だと、脳というものはたくさんの神経細胞が接続し合った回路の集まりであり、その神経細胞たちは自然の法則に従って活動しているというんですから、先生方は、Kさんの尊い「自由な意志」が単に神経回路の結果に過ぎないと言いたいんですか?早い話、例えて言えば、たくさんの電気コードを丸めて行けば、そのうち自由に勝手に動き出して、戦争に行くって言うんですか?
【 病理医 】いえ、そういうつもりでは。一般的な医学的なご説明をしようと思いまして・・・
【 市民2】それではあんまり即物的すぎませんか。やはり脳の中に、心とか魂とか、神様の意志とか、そんなものが働いていて、それが神経回路を動かしているんじゃないですかね?そういうのは、さっきのCTとかMRIの写真には写らないんですかね?脳のどの辺が本当のKさんなんですかね?
【 病理医 】解剖学的に分解してみても説明が・・・。ご質問の内容については、今まで哲学者や宗教者の受け持ちとされて来ましたが、最近は画像技術の進歩によって脳科学者が解明を進めているところではありますが・・・

【 市民3】私、認知症の父を介護しておる者です。Kさんは、記憶をなくしたら、恐怖も薄れたという経過でしたね。それならかえって認知症はKさんにとって救いであったに違いないと思ったのですが、でも、その状態を顕微鏡で見たら、脳の神経細胞が無くなっていたと言うじゃないですか。それって例えて言えば、Kさんの脳の中が、住民の死に絶えたゴーストタウンみたいだった、ということなのですか?Kさんは、叫び続けたまま少しずつ消えて行ったということなのですか?そしてKさんは、病末期には抜け殻の体を残したまま既にこの世から去っていた、ということなのですか?
【 病理医 】文学的にいえば、そう言えるかも知れませんが・・。
 ええと、それでは途中ですが時間ですので、閉会したいと思います。今回の公開検討会はいろいろな意味でのギャップが露呈した検討会であったかと思います。つまり、脳神経医学と哲学・宗教の間のギャップ、「人間というマクロの存在」と「神経細胞というミクロの存在」の間のギャップ、そして医療者と市民の間のギャップなどが露呈したのではないかと思います。近い将来これらのギャップが埋められますことを願いながら、これで閉会したいと思います。本日のご参会まことにありがとうございました。やれやれ・・・

     青森県医師会報 平成21年12月 559号 掲載


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