かつて釈迦が法を説いて多くの衆生を救済し西方浄土へ渡られた。その入滅後の世界を託された弥勒菩薩は、釈迦に教え導かれて第二代の仏陀となり、五十六億七千万年後の未来に姿を現し、残された全ての衆生を救済して涅槃に入ると約束されていた。
今まさにその五十六億七千万年の時が流れ去り、弥勒菩薩はそろそろ地球に到着するところだった。かつて青かった地球はやや黄ばみ、宇宙だって少し歳をとったのだが、悠久の弥勒にとっては瞬く間のことだったに違いない。
弥勒は思った。地上の衆生は、釈迦が残された大いなる足跡に従って解脱を済ませ、ほとんどが浄土に渡ってしまったのかも知れない。既に地上はモヌケの殻かも知れないのだ。それなら自分は、龍華樹の下で長旅の疲れを癒やしながら、ゆっくり涅槃に入れるというものだ。もしそこに救済に漏れた衆生が残っていたら、彼らを涅槃に導くために、自分ならどのような説法をしようかと、はやる心を抑えつつ旅路を急いでいた。
しかし、地上に降り立った弥勒菩薩は吃驚(びっくり)仰天してしまった。かつての釈迦の説法は何処にも見当たらず、全ての衆生は、五十六億七千万年前の昔と全く変わることなく、「生老病死」を繰り返し、無明のただ中で弱肉強食の生存競争を続けていたのだ。やはり「この世に生まれ出ることは苦」であり、はるか昔に社会保障が破綻してしまったので、「老いても介護がなく」、「病を得ても医療がない」のだった。打ち続く天変地異の中、相も変わらず戦争に明け暮れ、自ら造り出した格差社会の貧困に喘ぎ、新型インフルエンザなどの疫病が絶えず、そして待ち受ける「悲惨な死の苦しみ」に震えおののいていたのだ。
釈迦の説法は一体何処へ行ったのだ!衆生にとってこの気の遠くなる年月は何だったのか!弥勒菩薩は衆生の有様をもう一度くまなく観取するや、直ちに龍華樹の下に坐し、右手を頬に置いて思惟に入った。思いもしない大仕事が待ち受けていたのである。しかも、長旅の疲れは如何ともしがたかった。弥勒は坐したまま、待ち受ける睡魔に襲われ、夢の中へ落ちていった。
その夢の中で、弥勒は釈迦と対峙して坐し、釈迦を仰いで根源的なる問いを発していた。
釈尊よ、かつて貴方は、衆生にとって耐え難いほどに美しい法を説かれた。それは衆生にとって大いなる救いとなるよりも、むしろ永遠の呪縛となったのではありませんか。
釈尊よ、貴方は「諸行無常」を知って束縛から解き放たれよと説かれた。しかし、衆生はとても弱い存在であるため、常に変わり行く因果の応報から自由になることは、怖くて耐えられないのです。彼らは、すべてが自己責任となる自由より、むしろ因果応報によって拘束された責任のない安穏をこそ望んでいるのではないでしょうか?。事実、貴方がここを去られた後、聖職者たちは、衆生の無力を察して、彼らへの悪い応報はすべて運命のせいにして責任を減らし、念仏を唱えさせて大目に見ることにしているのです。
釈尊よ、貴方は「諸法無我」と説かれた。しかし、衆生は「色即是空、空即是色」を理解しません。貴方がかつて菩提樹のもとで修行されていたとき、次々と悪魔が現れ、富や権力やあらゆる欲望を示して誘惑したのに、貴方は全てを拒否し斥けた。しかし、貴方がここを去られた後、聖職者たちは貴方から離れ、悪魔と手を組んで「地上の王国」を造ったのです。すなわち、多量の仏像を建立してこれらを釈尊と見立て、これらに衆生を跪かせるための戒律と組織を作り上げたのです。衆生はこの中でこそ最も生き生きとしているのです。衆生は明日の糧をもたらす者を求め、そこに跪くことをこそ望んでいるのです。服従の幸福、支配者への尊敬。それこそが衆生の望むものなのです。
釈尊よ、貴方は「涅槃寂静」の境地を説かれた。しかし、その境地で何をすべきかを語られなかった。貴方がここを去られた後、聖職者たちは、「釈迦が蓮の上に憩う」奇跡のような極楽絵図を描いて衆生に見せ、その境地に入れるかの如くに思わせ、それを切望するようしむけたのです。衆生は奇跡を見ずしては信じることができないからです。しかし、未だかつてその境地を得て帰った者はおりません。その境地が存在するというのは、衆生を法に引き付け、「奇跡への捕らわれ人」として繋ぎ止めるための「最後の最大の方便」ではないのですか。
再び、釈尊よ、貴方が説かれた叶うことのない美しい教えは、むしろ衆生を苦しめ続けているのではありませんか。生まれたばかりの赤子に美しくも不可能な難題を突きつけることは、赤子にとって幸せなことでしょうか。もし貴方の教えを目指す衆生がいれば、その者たちは生存競争に敗れ、不本意な境遇へ転落するでしょう。そうでなければパトロンを得て、その庇護にすがって食を得つつ涅槃を目指すしかありません。それが真の涅槃への道なのでしょうか。
私は、衆生に向かいもう一度釈尊の教えを繰り返すべきか、あるいは衆生の幸せのために悪魔と手を結ぶべきか、分からなくなったのです。釈尊よ、お導き下さい!
釈迦は、静かに弥勒の問いを聞き終えられると、限りなく柔和な微笑を湛えたまま沈黙されていた。既に説法を終えられた釈迦には、更に付け加えるべきことは何一つなかったからである。
弥勒菩薩は深遠なる眠りから目覚めた。弥勒は、既に釈迦の説法を会得していて、そのまま独り涅槃に入ることが可能であった。それでも彼は、まだ涅槃に届かぬ衆生のために娑婆(しゃば)に残ることを選び、涅槃の手前に立ち止まったのである。弥勒の菩薩たる所以である。衆生はただただ念仏を唱えながら弥勒の救済を待ち侘びるのだった。(平成21年5月30日)
青森県医師会報 平成21年 8月 555号 掲載