沈 黙                     目次に戻る


 西暦20××年、お彼岸の頃。K和尚さんは、NHKニュースと朝の連続ドラマを見ながら朝食を戴くのが日課だ。昨今のニュースときたら、健康保険証をもらえないとか、生活保護すら十分に受けられないとか、社会保障が破綻している話ばかりだ。そうかと思えばどこかの雑誌社が「世界の億万長者ベスト100人」の豪華な暮らしぶりを報じて話題になったりもする。K和尚さんは、一体この世の中どうなってしまったのだと、ため息が出た。
 お勤めを欠かさぬK和尚さんは、今朝もご本尊とその脇の弥勒菩薩さまの御前に正座なさる。それぞれこの上ない柔和な微笑を湛えておられるので、お勤めはK和尚さんにとって至福の時なのだ。K和尚さんはまた、当世風でもあり、レンタルDVDでハリウッド映画もご堪能なさる。昨晩もSF映画で夜更かしされたK和尚さんは、睡魔に襲われ、お勤め途中ながらSF映画のような夢をご覧になったのだ。

 夢は、地球よりはるか彼方の宇宙空間での出来事だ。
【 警 官 】こちらは宇宙交通ハイウェイパトロール。ただいまスピード違反者を拘束しました。宇宙空間において、なぜか水蒸気塊に乗り、超高速で東方へ向かう者あり、通行許可証の提示を求めたところ、Maitreyaと記載してあり、これは一体何者ですか?照会します。本部どうぞ。
【 本 部 】こちらは本部情報局。その方は、弥勒菩薩であり、釈迦から後世を託され、西方浄土を出立して、56億7000万光年の東方にある銀河系太陽系第三惑星(地球)まで赴かれる方である。同惑星において、悟りに入れぬ多数の衆生を救済し、皆と共に悟りに入るというミッションを受けられた方である。失礼の無いようお通しせよ、以上。
【 警 官 】了解。大変失礼いたしました、弥勒殿。ご任務ご苦労様です。
【 弥勒菩薩 】はい。私は、地球より戻られた釈迦からバトンタッチを受け、折り返し地球へと先を急いでおりますが、予定時刻に到着するためには光速で参りませんと間に合いません。ただいま地球では格差拡大が急速に進み、衆生が大変な目に遭っているのです。それを知れば尚更、心がはやるのです。
【 警 官 】弥勒殿は優しいお方だ。貴殿は仏教圏だけの受け持ちなのですか?実はついさっき、キリストと名乗るお方も、本官がお引き留めしたばかりなのです。あのお方は、商業活動をよしとされたために、迷える子羊たちが昨今の新自由主義にまで迷い込んでしまったと、大層お心を痛めておられました。それでもその解決策をお口にされませんでした。例え殉教者の傍らにあってさえ奇跡を起こさず、沈黙を保ってきたのだそうです。貴殿ならどのように解決なされますか?
【 弥勒菩薩 】衆生の救済を忘れて自己の悟りだけを求める利己者は真の覚者ではありません。すべての衆生に利他を説いて共に悟りに入るのが真の覚者です。金持ちだけが幸せになっても本当の幸せではありません。富は程良く再分配されてこそ有用なのです。新自由主義のように、偏ってはなりません。中庸を得てこそ格差社会は改善可能です。それでは、救済を待つ衆生のもとへ急ぎますので、これで失礼。
 そう言うと、弥勒菩薩は流星のごとく出立した。

 K和尚さんは、その後ろ姿を追うように呼びかけた。
「弥勒さま!私には、56億7000万年を待つ命がございません!檀家衆のために、今すぐに妙案をご教示下さいませ!」
K和尚さんの叫び声が宇宙空間に木霊した。

 ポコと木魚の音がして、K和尚さんは居眠りから目を覚ました。目前の弥勒菩薩は、限りなく柔和な微笑を湛えたまま、沈黙されておられた。地上の富の分配は、衆生が中庸を得て、上手にするがよかろうと、諭しておられるかのようだった。

     青森県医師会報 平成21年 2月 549号に掲載


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