命のビザ                           目次に戻る


 K先生は大学医学部の講師まで務めた有能な外科医である。彼は、大学病院にあっては、豊富なマンパワーと組織力と最新の医療機器で、多数の難しい患者さんを救って来たのだ。また、後輩医師の指導にはことのほか熱心で、
 「研修医は三日寝なくて一人前だ、バカヤロー」
が口癖だった。
 ところがこの度K先生は、何の因果か大学医局を飛び出してしまい、某市の郊外に真新しいクリニックを開業したのだ。その瀟洒な建物に「K外科医院」と看板を掲げ、自分にとってもまだ馴染みのない診察室に、白衣とネクタイをして座っていた。それは随分と場違いな様子であった。多数の学会誌に目を通して来た彼は「ジャミック」誌とは縁がなかったし、採算度外視で来た彼は銀行の渉外係とは馬が合わなかった。明るい待合室には友人や製薬メーカーから胡蝶蘭の鉢植えが送られて来たが、肝心の患者さんがまだ来ない。来るのは高額の請求書ばかりだ。笑える話ではない。「もし運転資金が底をついたら」と考えると怖かった。先に開業した友人の言によれば、「バンジージャンプより怖い」のだった。

 誰もいない待合室では、かけっ放しのテレビが「東洋のシンドラー」とも呼ばれる日本の外交官「杉原千畝」の特番を放映していた。
 「彼は、第二次世界大戦下のリトアニア共和国に外交官として赴任し、そこでナチス・ドイツに迫害され追われるユダヤ人たちに対し、日本への亡命を許可する“命のビザ”(通過査証)を敢えて発給し続け6000人余のユダヤ人を救ったのだ・・・」

 K先生は、テレビのナレーションを片耳で聞きながらも、診察台に肘枕をついて居眠りを始めてしまった。夢の中のK先生は、何の因果か日本を飛び出してしまい、第二次世界大戦下のリトアニア共和国で「K外科医院」を開業したばかりだ、という設定になっていた。その医院の待合室はユダヤ人の患者で溢れ、建物に入り切れない患者たちが道路に長い行列を作っていた。彼らは、ナチスの喧伝によって暴徒と化した住民たちから迫害され追われていたのだった。彼らは、受付に殺到するや、手に手に「K外科医院」の診察券を求めながら、
「一刻も早く診察して紹介状をもらわないと、自分たちは命がなくなるのだ!」
と口々に訴えていた。K先生は、患者の出身地や症状や、出国が必要な理由や、携帯金が十分かなどを詳しく問いただし、克明な記録をカルテに書き取り始めた。患者は切れ目なく続いた。重症の患者も多いのだが、「K外科医院」には医療機器がほとんどなく、片っ端から紹介状を書いて送るしかないのだ。次々と紹介状を求められたK先生は、受け入れ先の確認も待たずに書き続け、携帯金のない患者にも書き続けた。紹介状を手にした患者たちは、直ちに追っ手を逃れ、シベリア鉄道に飛び乗った。日本の敦賀港に上陸し、ある者は神戸の病院へ向い、ある者はアメリカやパレスチナに向かった。
 来る日も来る日も昼夜を問わず書き続けた彼の右腕は、腱鞘炎で腫れ上がり、もはや一字も書けなくなってしまった。眼も頭も体も疲労困憊の極に達した。それでも医院内外の黒山の人だかりは更に増える一方であった。カルテが6000枚を超えたところで、遂に何者かによって、診療所を閉鎖する強制執行開始の警笛が吹かれた。
 「ああこれまでだ!神様、仏様、私の非力をお許し下さい!」

 K先生は居眠りから目を覚ました。無人の待合室では物音一つしない。肘枕にした右腕が痺れて感覚がない。まだ半睡の頭で考えた。
 「杉原千畝は命のビザを発給して6000人余を助けた。自分はこのクリニックで何が出来るのだろう」と自問するも、どこか心もとなかった。
 突然、玄関ドアの開く音がして、お婆さんが一人立っていた。患者さん第一号だ!K先生は、小走りで待合室を横切ってお婆さんの前に進に出ると、足もとにスリッパを一足揃えてあげていた。

     
青森県医師会報 平成21年3月 550号に掲載


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