「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」(池田澄子)
K子さんは俳句が好きで、句集をよく手にしていた。ところが、この句をふと目にしてからは、思わぬ事柄が見えない糸で繋がり始めたように感じて、戸惑っていた。
K子さんは、子育てを終え、念願の英会話スクールに通い始めた。かつて中学生の頃、「スチュワーデスになろうね」と友人と誓い合ったほどなので、英会話は楽しくて仕様がなかった。教室のホワイトボードに書かれる日常会話文の向こうには、アメリカンドリームが透けて見えていた。つまり、郊外の芝生のある大きな一戸建てに住み、ホワイトカラーの白人のご主人が広い居間の大きなソファーに座ってフットボールを視ている。最新設備を揃えた広いキッチンではブロンドの奥様がパイを焼いている。可愛らしい子供たちが賢い大きなコリー犬と戯れ、ガレージには大型乗用車が輝いている。そんなこの国の夢が世界の夢だったのだ。
K子さんの英語の担任教師は、白人のゴーマン先生だ。中年で大柄で、大きなメタボのお腹を突き出して汗を飛ばしている。ニーチェような髭を生やしているが童顔で、子供のようにまっすぐな心で、悪には容赦のない単純な正義感に燃えている。胸にバッジをつけた西部劇の陽気な保安官みたいだ。そんな先生を頼もしいとすら、K子さんは感じていたのだ。K子さんの夫は、太平洋戦争の思いが残るのか、
「わしは外人が苦手だ。おまえの好きにすればいいさ」
と言って、碁会所へ出掛けてしまうのだ。
しかし、あの句を目にしてから何かが少しずつ変わり始めていた。
「じゃんけんで勝って白人に生まれたの」
ゴーマン先生は、自分がアングロ・サクソン系白人に生まれ、プロテスタントであることを強く誇りにしていた。そして、英語を教わるK子さんたちが白人でないのは可愛そうなことであり、でもそれは何かの自己責任なのであり、彼女らを白人世界に救済してあげようとする自分の善意に大きな誇りを感じているフシがある。その善意の陰には覇権主義も見え隠れするためか、K子さんたちの中には
「ゴーマン先生はどこか傲慢よね」
と冗談を言う人たちも居るのである。
教室の壁にはブリューゲル作の「バベルの塔」の絵が掛けてある。それはローマのコロッセオ遺跡の何倍もある巨大な円柱状の塔であり、工事が頓挫したまま崩落するに任せた状態が描かれている。ゴーマン先生の説明はこうだ。
旧約聖書の時代、バビロンの都は繁栄を極めた。それとともに傲慢になった人間は、天にも届く巨大な塔を建造することで神に近づこうとした。その行いをご覧になった神は、塔の建造に携わる人間たちの言葉を上中下で変えてしまわれた。言葉が通じなくなった人間たちは工事が続けられず、塔は未完のまま廃墟と化した。その名残でいまでも世界はたくさんの言語に分かれているのだと、彼は結論づけた。彼は更に
「こんな無謀な塔は何時の時代でもありマス。今でもありマス。それはバブルの塔デス!」
と落として、無理矢理笑いを取っていた。
ある日のこと、K子さんは、昨夜の予習で夜更かししたせいか、不覚にも英会話の授業中に居眠りを始めてしまい、歴史絵巻のような夢の中に落ちて行った。その夢の中で、K子さんたちは「バベルの塔」の建造現場で奴隷として働かされていた。ナショナリズムに目覚めて就労に反抗した夫は、ゴーマンの鞭に打たれて、奈落の底に転落して行った。世界の保安官ゴーマンが絶叫している。
「今日を最後に、日本語を使ってはイケナイ!。総て英語のみ許される!世界一の大国のコトバを覚えるのだ!これはいつもの会話練習ではナイ!」
彼は、ピシッと鞭を唸らせた。建造現場の片隅では知り合いの爺さんが、五・七・五と指折りしながら、泣く泣く最後の句作をしていた。その風景は、K子さんがかつて中学校の国語の教科書で読んだドーデ作「最後の授業」の世界とそっくりだ。
「バベルの塔」の基礎の階では「じゃんけんで負けてアフリカに生まれた人たち」が働き、中層階にはK子さんたち黄色人種が働き、塔の上層階には白人が住んでいて、それぞれ言語も宗教も異なっていた。K子さんたちは、中下層階を脱して少しでも早く上層階に仲間入りしたいと頑張り、階下を踏みつけながら必死に背伸びをしていた。やっと今その姿に気付いたのだ。K子さんは、日本人である自分には人種差別など関係ないと思っていたのに、実際には自分の内側に差別意識が存在していることに気付いたのだ。
アフリカの人たちは、素手や素朴な道具で土を盛り基礎を固めようとしていたし、黄色人種は木材や漆喰を積んで中層階を固めようとしていた。白人たちは上層階に戦車のような重機を持ち込んで岩石や鉄筋コンクリートを積み上げ、巨大で重厚な部屋を造り上げ、大型自動車を運び込んでいた。更にそこから下方階に向けてボーリングを突き刺して、地下水や石油やダイヤモンドといった地球の富を汲み上げ始めた。それに従い次第に塔は地盤沈下を始めた。巨大でいびつな塔はどんどん頭デッカチになり、シャンペンボトルを逆さにした形の塔は、当然傾き始めた。
「倒れるぞ!」
総ての人々が絶叫する中、「バベルの塔」は大地を揺るがして大崩落を始めた。
声にならぬ声を上げながら、K子さんは居眠りから目を覚ました。そこをゴーマン先生が見逃す筈はなかった。
「K子サン、しっかり勉強しないと、英会話はバベルの塔のようにいつまで経っても未完成デス。そのようなことをニホン語ではサジョーロウカクと言いマス」
そう言って、また笑いを取った。
青森県医師会報平成21年 1月 548誌号に掲載