昭和60年4月、秋田大学卒業後、弘前大学医学部第二内科へ入局させていただき、その医局生活のうち通算で5年間目時院長のご指導のもとに黎明郷にお世話になりました。その時々の記憶の中にある普段の風景を、スナップ写真のアルバムを眺めるように、思い出してみたいと思います。私のカメラは旧式の物なので、画像が歪んだりします。肖像権の侵害となりましたら、お許し下さい。
 昭和60年12月より、黎明郷の医局のメンバーは吉岡、二瓶、川原、工藤、大沢先生でした。恒例のご挨拶のため、大池理事長先生のお部室を振り出しとして、院内の各部所を行列を作って巡りました。私は目時院長のネーベンとして4病棟勤務となり、奈良婦長、桜井主任、看護婦の沢田、渡部、工藤(留)、西沢さんらとご一緒でした。黎明郷CPCの最中に大きめの地震がありました。李暁春先生、郎森陽先生の送別会が目時院長宅で蘇牧先生を交えて開かれました。脳卒中患者におけるChilaiditi症候群の症例を論文に纏めるようにと目時院長よりご指示をいただきました。この頃より金沢先生ご考案の家兎脳虚血モデルの試作が開始になっています。営繕の永井さんが実験用の家兎固定台を手作りしてくれました。
 昭和61年4月より、医局のメンバーは嶋中、川原、堰合先生らとなり、私は八戸市民病院第3内科へお世話になりました。
 昭和61年10月より、医局のメンバーは嶋中、東山、上村、長谷川(直)先生。私は5病棟勤務となり、山田婦長、相馬主任、看護婦の成田、西沢(み)、工藤(一)、武久、真田、吹田(哲)、対馬、長内さんらとご一緒だった。蘇先生と催先生を交え家兎脳虚血モデルの試作が続けられました。王先生ご指導のもと、脳卒中患者の片麻痺に対する鍼治療を試みました。呉先生も参加されました。時間外のCT撮影を遠慮がちに指示しても美濃又さんらが駆けつけてくれました。この年のクリスマス・レクリエーション大会には医局の先生方による福笑いゲームもありました。事務の小林さんが給料袋を配達してくれました。夕暮れの中、建物の軒下に立ち合掌する人の姿を見たことがあります。ご主人の回復を祈る奥さんだったのでしょうか。
 昭和62年4月より、医局のメンバーは二瓶、川原、秋津、横野先生。私は3病棟勤務となり、対馬婦長、桜井主任、看護婦の辻、石黒、松本、白戸、菊池、松崎、山田、赤平、高橋、田附、工藤(礼)、内山さんらとご一緒でした。夏の検診あり、私は検査の伊藤、五十嵐さんらと久吉地区などへ参り、またその反省会にも出席いたしました。病院の前庭に出て、青空のもと、若葉を眺めながらの「野外食」は楽しい風景でした。
 昭和62年10月より、医局のメンバーは二瓶、高瀬、西村先生らとなり、私は大学呼吸器グループの先生方にお世話になりました。
 昭和63年4月より、医局のメンバーは二瓶、高瀬、小松(隆)、西村、井沼先生となり、私は公立金木病院にお世話になりました。
 昭和63年10月より、医局のメンバーは二瓶、菊池、今田(篤)、清野先生。私は1病棟勤務となり、柳川婦長、工藤主任、看護婦の黒石(昌)さんらとご一緒でした。秋の火災訓練あり、誰が消防車の梯子に登るかで譲り合っておりました。交換手の田中さんの応対が好評でした。12月28日仕事納めあり隣合わせた小山局長さんと初めて雑談しました。翌昭和64年1月7日、私が当直明けの朝、奈良さんが医局に入って来るなり「先生!とうとう御臨終だそうです」と言い、「何病棟の患者さんですか!」「昭和天皇です」。劉勇先生が家兎の実験に参加されました。一部職員の署名活動に対して「勤務外の者は病室に勝手に入らないで」と警告を発しました。ビラ撒きする職員を鈴木課長が阻止していました。
 平成元年4月より、医局のメンバーは二瓶、木村(俊)、佐々木(直)、沢田先生。私は2病棟勤務となり、鈴木婦長、佐々木主任、看護婦の丸山、森さんらとご一緒でした。作業療法部門の統括責任者となり、朝礼をしました。失語症の患者さんが、奥さんに付き添われて車椅子に座り、ホールの公衆電話からお孫さんと会話しているのを見たことがあります。会話文が成立しなくても、心の対話が成立しているようでした。
 平成元年10月より、医局のメンバーは二瓶、井沼、宮田、吉田(道)、石山先生となり、私は弘前中央病院にお世話になりました。
 平成2年4月より、医局のメンバーは二瓶、高瀬、安ケ平、西村、永洞、相馬、吉川先生となり、私は鯵ケ沢町立病院にお世話になりました。蒲先生の送別会がありました。
 平成2年10月より、医局のメンバーは二瓶、佐々木、石山、相馬、花立先生。何先生も来院。私は3病棟勤務となり、佐々木婦長、工藤主任、看護婦の原田(恵)さんらとご一緒でした。SGTの学生さんに院内の見学と画像診断の説明を時々させて貰えるようになりました。斉藤STさんらと言語治療研究会の会場造りや後片付けをしました。
 平成3年4月より、医局のメンバーは二瓶、今田(慶)、今田(篤)、佐藤(純)、長谷川(幸)先生。私は1病棟勤務となり、柳川婦長、工藤主任、看護婦の対馬、武久、石田、工藤(礼)、福井、工藤(喜)さんらとご一緒でした。A先生の不幸な出来事(3月25日)があり、黎明郷より藤崎町立病院へ一ヶ月毎に医師が派遣されることとなり、私も5月の一ヶ月間を同院で過ごしました。張先生が来院され、田中(真)さんにも家兎の実験のお手伝いをいただきました。福島県に帰られる二瓶先生の送別会があり、8月12日より私が医長を拝命致しました。これより、労働組合との団交・斡旋に列席したり、倉地弁護士との打ち合せに同席させていただいたり、地労委の審問に出席させていただき、医学以外のことを学ぶ機会が度々ありました。台風19号あり、大きな被害がありました。
 平成3年10月より、医局のメンバーは南、奥口、人見、柳町、堀越先生。私は引き続き1病棟勤務となり、三国谷婦長、工藤主任、看護婦の高橋(実)、今井、原子、尾崎さんらとご一緒でした。言語治療部門の統括責任者として、毎日朝礼をしました。鳴海薬局長の尽力あって病院旅行は沖縄へ飛びました。外来は佐藤(靜)婦長、蒔苗、大高さんらあり、賑やかでした。忘年会には大勢の来賓の方々に失礼のないように努めました。営林署の巡回に隣へ出かけることもありました。就業規則が各病棟に掲示されました。私にとって黎明郷の印象を構成する方々の退職が相次ぎました。ドクターをも教え諭す中畑総婦長の姿に助けられました。
 平成4年4月より、医局のメンバーは和田、斉藤(大)、村上、田村先生。私は引き続き1病棟勤務となり、MSW原さんが忙しそうでした。私は胆石・急性化膿性胆嚢炎のため、弘前中央病院へ入院し(6月15日)胆摘術を受け、この間大変ご迷惑をお掛けしましたが、多くの方々から暖かいお見舞いを戴きました。有難うございました。
 平成4年10月より、医局のメンバーは西村、宮原、畑山、中野先生。私は2病棟勤務となり、山田婦長、工藤主任、看護婦の三橋、西沢さんらとご一緒でした。呉先生が来院され、家兎を用いた実験に積極的に取り組んでおられました。張先生の離弘するを送りました。平成5年3月31日西村先生に「医長」の引継をして黎明郷を去りました。
 平成5年4月より八戸市民病院第三内科勤務、平成5年7月より町立田子病院勤務を経て、生地である三戸郡階上町にて小松内科医院を開業し今日に至っております。もっとたくさんのスナップ写真を並べて、多くの方々に登場していただきたかったのですが、下手な写真では申し訳なく、これぐらいでアルバムを閉じることといたします。黎明郷は私にとって大きな「学舎」でありました。大池理事長先生、目時院長先生はじめ、多くの方々にお世話になりました。本紙面をお借りして厚くお礼を申し上げます。ありがとうございました。(平成8年2月23日)



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          私の黎明郷スナップ写真           

       (「黎明郷リハビリテーション病院 創立30年誌」に掲載
      平成8年4月20日発行)
     

   

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