'97 開業医Dr.Kの散文的な日々
 (秋田大学医学部同窓会誌「本道」第9号に近況を投稿し掲載された文章です)

 1997年4月、Dr.Kはこの頃自分が回遊魚のサケのようだと思う。サケは生まれ故郷の川で孵化して幼い頃を過ごし、その後、川を下って大海に出て育つ。産卵の頃に番となって、間違いなく故郷の川に戻って来て、そこで一生を終える。そのサケの生態と自分の今までの行動が酷似しているからだ。Dr.Kは、青森県の南部地方にある無医村に生まれ、そこで育った。中学高校を隣接する八戸市で過ごし、その後、東京のW大学理工学部へ進学した。しかし、「医者になって故郷の人々のお役に立てたら立派だよ」という周囲の期待に応えるしか自分を生かす道はなかった。新規巻き直しを図って、秋田大学医学部へ進学した。時に二十六歳の春だった。第二の学生生活を秋田市で過ごし、八戸出身の奥さんとお見合い結婚した。卒業後直ちに弘前大学医学部第二内科へ入局して、津軽地方を中心に十年間の医局生活を送った。学位を貰って、南部地方のT町立病院へ院長として赴任して、足掛け三年になったところで、生地であるH町で内科医院を開業した。とうとう、「回遊魚のサケ、生まれ故郷の川に帰る」の図となってしまった訳だ。
 この回遊魚Dr.Kの学問的業績はというと、学位論文「家兎脳虚血モデルにおける局所脳血流量ならびに脳波の相互関係」、脳卒中学会誌に採用された「脳卒中患者にみられた Chilaiditi症候群11例についての検討」などあるも、 回遊魚の悲しき性質あってか学究の海を逍遥する訳にはいかなかった。
 この回遊魚Dr.Kの臨床における態度はというと、末期患者の延命至上の態度から、自然経過を見守るような態度に変化していった。妙に悟ってしまったのだ。むしろ、Dr.Kは、死亡診断書を100枚程書いた頃から疲れてきたのだ。一人ひとりの死と付き合い、三途の川の此岸に居て、渡し舟定期便の片道切符にハサミを入れ、水杯を交わすのには精神が丈夫でなかったのだ。それで、内科外来だけの診療所を夢見始めたのだ。
 Dr.Kは、医局時代は津軽地方の某リハビリテーション病院の勤務が長く、同院の医長を拝命した。当時は労使紛争の激しい頃で、Dr.Kはしばしば労働組合との団交、斡旋、地方労働委員会の審問に出席した。しかし望郷の念止み難く、思い余って、O教授に直訴したら、南部地方のT町立病院へ院長として赴任しないかと言われた。「自治体病院は冬の時代を迎えた」と言われて久しい頃、T町立病院も古い設備、医師不足、患者離れ、人件費アップなどの問題を抱えて、厳しい状況にあった。そういう問題に素人のDr.Kは、躊躇うことなく赴任し、病院再建を目指してはみたが、出身医局を異にする医師たちの協力が得られず、病院再建は成らなかった。巨額の累積赤字は院長の責任であり、Dr.Kは手紙を書いた。
「O教授御机下。私こと、Kは下記の理由にて、T町立病院長を辞職いたしたくお願い申し上げます。病院経営健全化計画の成功の見込みはなく、院長の器にあらず伝々・・・・。以上の理由にて、T病院長を辞職し、生地H町にて内科医院を開業したいと考えるに至っております。これらのこと、お許しいただきたく、平にお願い申し上げる次第であります。平成7年x月y日 K(拝)」。
 かくて、K内科医院開設へと走り出したのである。秋田市に拠点を置く(株)S薬品による支援のもと、診療圏調査、経営シミュレーション、資金調達、業者選定、スタッフ募集、開業諸手続き、開業披露宴と進み、晴れてK内科医院のオープンとなった。こうして、開業医Dr.Kの散文的な日々が始まった。当初運転資金が底を尽くかに見えてから、次第に軌道に乗り始めた。「医者と芸者は地元でするな」なる教えが正しいのかと、一時は心配したが、その心配は今は遠退いている。
 同医院の人員構成は、Dr.Kの院長、その妻の事務長、三人の准看護婦と三人の事務員から成り、うち一人が薬局に廻る。診療科目は、内科、消化器科、循環器科、理学療法科を掲げ、浅くとも広く診療出来ることが望まれている。業務は、日常の診療のほかに、二つの中学校の学校医、近隣の中小の企業の職場検診、出稼ぎ者検診、生命保険嘱託医など。定期的な往診(「在総診」未届けなので)が数人あり、広いH町の端から端まで、四輪駆動スバル・レガシーを購入して走っている。同院は入院病棟を持たないため、診療と在宅医療に限界があることが大きな悩みだ。主な診断設備としては、X線透視台、心・腹部兼用エコー、電子内視鏡、ホルター解析付心電計などを備えた。K医院での特徴的な出来事は、同町に漁業従事者が多いせいか、内視鏡にて胃アニサキスを摘除することが多いこと。
 日々の診療でカゼの患者さんばかり診ているDr.Kは、大病院などで医学的に悪戦苦闘しているらしい医師たちを見ると、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」(啄木)の心境となってしまう。 Dr.Kは、職員の接遇教育にも腐心しなければならない。事務職員に採用した女の子たちが、ルーズソックス履いて、アムラーと名乗って茶髪になって行くのを注意したものか、そのまま物分かりの良いオジサンで居た方が得なのか迷っている。税理士の先生が毎月諸々の帳簿を見に来られる。青色申告を纏めてみたら専従者給与を少しアップしてもいいようですとか、これは経費扱いになりませんとか、色々とおっしゃる。それでこの頃のDr.Kの買い物は、経費となるかならぬかに左右されるようになっている。社会保険労務士の方に職員の給与計算を依頼し、今年のベースアップは平均3%で行こうと相談する。職員の労働時間は週40時間をクリアー出来ている。就業規則、賃金台帳や出勤簿等が完備していることを社会保険事務所に知らしめ、職員の健康保険証を発行してもらう。職員の退職に備えて、「中退金」の掛け金を積み、自分自身の休業補償の掛け金も支払っている。Dr.Kは、NECのノートパソコン PC-9821 Na15を買って、「一太郎Ver.8」と「Excel 97」をインストールした。院内の書類作成や薬剤等の棚卸しを容易にかつ頻回にできるようにと考えてのことである。インターネットまでは当座不要と思っている。勤務医であったころは、毎年夏に1週間ほどの夏休みがあって、旅行もしていたし、国際学会で発表もしたことがあるのに、開業してからは一泊二日の東京旅行がせいぜいである。それでも、当直のないことがなによりも楽であった。
 一日の診療を終えて帰宅したDr.Kは、小学6年の長女と3年の次女に、「タマゴッチ」が欲しいと言われ、どうして、パチンコの景品にもなっている「たまご型ウオッチ」がそんなに人気があって入手困難なのか、理解できていない。小学校の音楽朝会では、「伝説のコンビニ」という曲を歌っているのだそうで、およそ医学博士Dr.Kの頭の中では、伝説という言葉とコンビニエンスストアという言葉は結び付かないのだ。Dr.Kは、少し世の中が変になって来たのだと言い訳して、現実と自身とのずれに気付かぬ振りを決め込んだ。Dr.Kは開業に先だって自宅を建てた。住宅金融公庫への少なからぬ返済もある。 Dr.Kは、去年兄が急逝したため、一人息子となってしまった。父母も老いつつあり、妻の父母も然りであった。子を後継者にしようと、腐心もしている。日常の診療と雑事、こんな散文的日々の積み重ねの他には自身の価値は無いのだろうかと、溜め息をつくことがある。そう書いたこの投稿文も程なくしてチリ紙交換に出されてしまうことをDr.K は知っている。諸行無常の響きあり、か。(平成9年4月28日)


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