人間いたる所に青山あり

  青森県立八戸高校進路部PTA厚生委員会編2001.9 No.6
  「父・母から、息子・娘たちへ」−私の選んだ仕事、そのきっかけと喜び−

  上記文集に「医師職を選んだ」者として投稿を依頼され寄稿した文章です

 私は、昭和27年階上村(当時)に生まれました。当地はしばしば無医村のような状態となるので、村の人が医者に掛かるには八戸市まで出向かねばならず、交通の便の悪い当時は大変な時間と労力を必要としました。実家は医家ではありませんが、幾つかの業種を抱えて忙しくしておりました。次男の私は自由な立場にあり、「医者になって村の人の役に立てたら立派だよ」と期待されていたような気がします。
 私が小学生の頃、実家の倉庫には各種の化学肥料などが袋積みされていました。私は、その破損した袋から例えば硫安や生石灰を持ち出して、混ぜて見たり風呂の薪火で加熱して見たり、化学者ごっこをして遊びました。また、運輸業もしていましたので、トラックの助手席に乗せて貰い、遠くの駅の貨物を受け取りに行ったり、外国船の停泊する一万トン岸壁へ行ったりもしました。将来は外国語を話しながら世界を駆け巡る商社マンに成りたいとも思ったものでした。
 それあってか、長じて八戸高校2年の時には、文系クラスを選びました。しかし、世界史などで人間の犯してきた醜悪な出来事の歴史を勉強すると次第に文系が嫌になり、神秘的で間違いのない自然現象や化合物の結晶の美しさに魅了されて化学者になりたいと思い、3年の時には理系クラスに転向したのでした。
 万事こんな調子ですから、卒業後、信念もなく東京理科大学理学部応用化学科へ進学しても、3か月行って辞めてしまいました。勝手に実家に帰って親に叱られて、自宅浪人を始めました。翌年には早稲田大学理工学部応用化学科へ進学しましたが、それでも大学への意欲が湧かないのです。「先ずは人生の目的を探すことから始めよう」と考え、本屋を廻ってドストエフスキーや太宰治、誰それの人生論などの文庫本を山ほど買い込み、大学へ行かず、下宿へ閉じ籠もったのでした。ところが読めば読むほど、今までの自分勝手な価値観が次々と崩壊して行き、混迷は深まるばかりで、自分が何を為すべきか全く分からなくなってしまいました。留年2回して、学部7年生に成ろうという時に、どうでもいいから早大を卒業して生家に帰ろうと思い、明治生まれの古参教授の卒業試験に「お願いですから卒業させて下さい」と答案に書いたら、呼び出されて、「君のような半端者は絶対卒業させん!」と大変な剣幕で叱られたのでした。かくて3回目の留年が決まり、これを契機に私はもう一度受験勉強を始め、秋田大学医学部へ進学することになりました。時既に26才の春でした。メデタシメデタシ。こんなことを「人間万事塞翁が馬」と言います。
 私の場合、誰かの既成の価値観を借りてせっせと身につけて来たのに、やがてそれらは瓦解し、その底に残ったものは、「周囲の人たちの期待に応えて、人の役に立つこと、それによって自分を生かすこと」でした。つまり、「私が幼少の頃、私の周囲に居て、私を育ててくれた人たちが今老境にあり、その人たちのために役に立つこと」でした。つまり、「医者になって階上村での地域医療に生きること」でした。心が決まった私は、秋田大学を卒業して、弘前大学医学部内科に入局し、青森県に多い脳卒中についての研究を国際脳卒中学会(ワシントン)で発表して医学博士号を受けました。田子町立病院長として南部地方に帰り、階上町に内科医院を開業しました。私の半生は、回遊魚の鮭が生地の川から大洋へ出て回遊し再び生地の川へ回帰する事に似ています。今、地域の方々が当院にお出で下さることに喜びと責任を感じております。
 高校生である皆さんは現在ご自身の進路について五里霧中の状態かも知れません。高校生の時にご自身の一生の職業を決定するのは困難かも知れませんが、「自分は何を為すべきか」を誠実に問い続けるならば自ずと道は開かれるものと思います。五里霧中の霧がもし晴れたら、「人間いたる所に青山あり」が手に取るように見渡すことができるのかも知れません。その道が「花道」であるかどうかは、貴方が決めることなのです。(平成13年6月12日)
   
 八戸高等学校進路指導部 宇藤裕夫先生へ
「職業文集」の投稿子にご指名下さいまして有り難うございました。先生のますますのご健勝をお祈りいたします。

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