間に合った! ―父と子の小さな大河ドラマ―      目次に戻る


 私の父は、大正12年、半農半漁のH村に生まれました。尋常小学校の成績が良かったので、担任の先生は進学を勧めたのですが、
「子に学問をさせると馬車引きをしなくなる」
という祖父の言い分で、上の学校に進めず稼業を手伝ったのでした。大層悔しかったに違いありません。青雲の志を抱いた父はとうとう祖父に無断で密かに家を抜け出し、仙台に出て苦学したと言います。その後、太平洋戦争へ出征し、無事還ると、祖父の強い願いに応えて村に帰りました。そこで様々な自営業を試みながら自分の立ち位置を築いていったのでした。
 そんな父ですから、私には学費の不自由をさせませんでした。父は、私が医者になって医療過疎のH村のために役立って欲しいと密かに願っていたのでしょう。
               ☆

  私が小学生の頃、実家の倉庫には化学肥料などが袋積みされていました。私は、その破損した袋から硫安や生石灰などを取って混ぜて風呂の薪火で加熱して見るなど、化学者ごっこをして遊びました。自分は、将来化学者になりたいのかと思い、東京理科大学理学部化学科へ進んでも意欲が湧かず、三か月行って辞めてしまいました。勝手に実家に帰って父に叱られました。
 自宅浪人をして、翌年には早大理工学部応用化学科へ入学しましたが、それでも父は喜んで呉れませんでした。
 父の元を離れた私は早大学交響楽団へ入ってバイオリンを教えて貰い熱中して大学へ行かず、一回目の落第をしました。
「先ずは人生の目的探しから始めよう」
と考え、文庫本を山ほど買い込み下宿へ閉じ籠もったのでした。文学部の友達と人生論を語って大学へ行かず、二回目の落第をしました。
 これではもう良い就職は出来ません。溜息を吐いてばかりで大学へ行けず、三回目の落第をしました。
 期待されて村を出たのに、何も出来ていません。もはや行き場を無くした私は、故郷(ふるさと)の唱歌を聴いても、「志を果たしていつの日にか帰らん」という歌詞まで来るとわびしくて涙が出るのでした。
 そんな私の心の底に、私のすべきことが見つかったのです。それは、
「周囲の人たちの期待に応えて、人の役に立つこと、それによって自分を生かすこと」
でした。つまり、
「私が幼少の頃に私の周囲に居て私を育てて呉れた人たちが今老境にあり、その人たちの期待に応えて、その人たちの役に立つこと」
でした。つまり、
「医者になってH村での地域医療に生きること」
でした。心が決まった私はもう一度受験勉強を始め、早大卒業と同時に秋田大学医学部に進みました。時既に26才の春でした。
 秋田大卒業後、弘前大での医局生活を経てH村に帰り、小松内科医院を開業できました。父が役場向かいに開業の土地を準備していて呉れたのです。
               ☆

 開業がやっと軌道に乗った頃、私は55才、父は84才になっていました。
 ある日、実家に立ち寄った私に父が唐突に言ったのです。
「お前は親孝行だ。美味いものを持って来なくていい。お前は自分の仕事をしっかりやれば、それが親孝行だ」
とはっきり言って呉れたのです。
 それから数日して、父は脳梗塞・右片麻痺・失語症で倒れ、もはや何を言っているのか分からなくなりました。入院ベットに横臥する父の横顔を見ていると、私の半生は、父の期待に応えようと泣きながら後を追い掛ける子供のもがきのようだと思えて来るのです。
「やっと、間に合った!」
という思いが湧いて来て涙が出るのでした。
               ☆

 父親が息子に向かって「お前は親孝行だ」という言葉は何程か息子の自信に繋がることでしょう。
 還暦を迎えた”年男”の私は、娘を二人持っていますが、この頃娘たちに向かって、
「二人とも親孝行だね」
と言うようにしています。娘たちは、なぜ自分たちの父が唐突にそんなことを言うのか、不思議だという顔をします。


「はちのへ医師会のうごき」平成24年1月20日 511号(新春特集号)掲載


 目次に戻る







                                                             

 

     

1 1